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追放された鑑定士ですが、本当の能力は"未来の価値"が見えることでした。王国が滅びてももう遅いので、辺境で商会を作ります  作者: まつたけひめ
第4章

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第32話 揺れる大気

 未来商会の研究棟、その最奥に位置するエルナの研究室は、朝から慌ただしい空気に包まれていた。


 棚に並んだ魔道具の測定器が、次々と甲高い異音を発している。魔力の流れを可視化するための魔力計、大気中の魔素濃度を測定する感応器、いずれもこれまで安定した数値を示し続けてきた道具たちだった。それが今朝に限って、まるで示し合わせたかのように誤作動を繰り返している。


「……また?」


 エルナは眉根を寄せ、机の上で震える魔力計の針を睨みつけた。針は右へ左へと不規則に振れ続け、まともな数値を示そうとしない。何度校正をやり直しても、同じことの繰り返しだった。


 思えば、この数日、研究室の空気そのものがどこか落ち着かなかった。窓から差し込む朝の光さえ、いつもより淡く、色味を欠いているように感じられる。もっとも、それはエルナの神経が過敏になっているだけかもしれない。そう自分に言い聞かせながらも、彼女は机の上に積まれた昨日までの測定記録の束に手を伸ばした。紙をめくる指先にも、いつもとは違う緊張が滲んでいる。


 ここ一週間分の記録をざっと見返すと、異常の兆候は数日前から緩やかに現れ始めていたことが分かる。最初はごく僅かな誤差だった。校正のわずかなズレか、湿度の影響か、その程度に思える範囲の数値の揺れ。だが、それが日を追うごとに大きくなり、そしてついに今朝、明確な異音と共に暴れ出すような不規則さへと変わっていた。


「エルナ、こっちの感応器もおかしいです」


 クロエが隣の机から声をかける。彼女の前に置かれた小型の魔道具もまた、赤いランプを点滅させながら、意味を成さない数字の羅列を吐き出し続けていた。


「装置の故障なら、まだ話は簡単なのだけれど」


 エルナは深く息を吐き、椅子の背にもたれかかった。研究者としての勘が、これは単なる機器の不具合ではないと告げていた。魔導連邦にいた頃から数え切れないほどの装置を扱ってきたが、これほど示し合わせたような不調は記憶にない。


 窓の外に目をやると、朝の光は変わらず研究室に差し込んでいる。だが、その光を通して見える空の色さえ、心なしかいつもより淡く、乏しく感じられる。気のせいだと分かっていても、そう思わずにはいられない朝だった。



    



 二人はその日の午前中いっぱいを使い、研究室にある測定器を一台ずつ丁寧に点検していった。回路の断線、魔石の劣化、術式の崩れ――考えられる原因を一つひとつ潰していく。魔石を新品に交換し、術式陣を一から書き直し、配線を隅々まで確認する。それでも、どれだけ検分を重ねても、装置そのものに異常は見つからなかった。


「装置は正常。なのに、示す数値だけがおかしい。これほど困惑させられる調査は久しぶりだわ」


 エルナが呟くように言うと、クロエが淡々とした口調で続けた。


「装置に問題がないなら、残る可能性は一つ。測定対象そのものに、これまでにない異常が生じている」


「大気中の魔力濃度そのものに、ということ?」


「そう考えるのが、最も筋が通る」


 クロエの言葉に、エルナはしばし黙り込んだ。魔導連邦で研究資金を絶たれるまで、大気中の魔力循環については誰よりも深く研究してきた自負がある。数百に及ぶ観測記録を積み重ね、季節ごとの変動から天候による揺らぎまで、あらゆるパターンを頭に叩き込んできたつもりだった。だが、大気そのものの性質が乱れるなどという事例は、これまでの研究人生で一度も出くわしたことがなかった。


「大気の魔力濃度が変動すること自体は、季節や天候によって多少はある。でも、これは……」


 エルナは、机の上に散らばった今朝からの測定記録に目を落とした。数値の振れ幅が、これまでの常識では説明のつかない域に達している。まるで、大気そのものが呼吸するように、目に見えない何かに脈打たされているかのようだった。


「これまで蓄積してきた理論のどれにも当てはまらない。私の知る限りの魔力学では、説明がつかない揺らぎ方をしている」


 エルナは自嘲気味に笑った。研究者として積み上げてきた知識の全てが、今この瞬間、目の前の現象に対してはまったくの無力だった。その事実が、誰よりも負けず嫌いな彼女の胸に、小さな棘のように刺さっていた。



    



 昼を過ぎた頃、クロエが一つの提案を持ちかけてきた。


「研究室の中だけで観測していても、限界がある。街の各所にも簡易的な観測点を設置して、比較するべきだと思う」


「街中に? それは大掛かりだけれど……」


「大袈裟な装置は要らない。小型の魔力感応器を簡易化して、いくつかの地点に置くだけでいい。あなたの理論と、私の設計なら、半日もあれば形にできる」


 クロエの言葉に、エルナの表情がわずかに緩んだ。原因の掴めない不安の中にあっても、目の前に「やるべきこと」が見えると、研究者としての本能が静かに火を灯す。


「……いいわ。やりましょう」


 二人はその日のうちに、簡易的な魔力感応の魔道具を数個組み上げた。エルナが理論面を固め、クロエが実際の設計と組み立てを担う。互いの得意分野を活かした作業は、危機感の中にあってもどこか心地よい呼吸を生み出していた。夕刻には、街の東西南北と中央広場、そして城壁付近の合わせて五箇所に、目立たぬよう擬装を施した観測点を設置し終えていた。


 設置作業中、道行く人々は、二人が街角に置いていく小さな道具に気づく様子もなく、いつも通りの賑わいの中を行き交っていた。子どもたちが露店の前で親にねだり、老人たちが縁台で将棋盤を挟んで語り合う。そんな何気ない日常の風景を横目に見ながら、エルナはふと、自分たちが今、その日常の裏側で進行しつつある異変を、誰よりも早く感じ取ってしまった立場にいるのだと実感していた。


「街の人たちは、まだ何も知らない」


「知らせるべき段階でもない。まだ、私たちにも何一つ、確かなことが言えないのだから」


 クロエの言葉に、エルナは静かに頷いた。研究者としての責任と、まだ何も証明できていないことへのもどかしさが、彼女の中でせめぎ合っていた。


 設置作業の合間、クロエが道具箱を片手にぽつりと呟く。


「レインさんも、何か様子がおかしいと聞いた。ミーナから」


「……知ってる。カイも夜の見回りで妙な気配を感じたって。何もかもが、同じ方向を指しているような気がして、正直、落ち着かない」


 エルナは手元の工具を握り直しながら、視線を遠くの空へと向けた。夕暮れの空は、いつもと変わらぬ茜色に染まっている。それでも、その奥の奥に、これまで感じたことのない何かが潜んでいるような、拭いがたい予感があった。



    



 夜、研究室に戻った二人は、設置したばかりの観測点から届いた初日のデータを机に広げた。数値は依然として不規則に揺れ続けている。だが、街の五箇所すべてで似たような揺らぎのパターンが確認できたことは、少なくとも一つの手がかりになった。


「装置の個体差じゃない。街全体で、同じ現象が起きている」


「ということは、局所的な問題じゃなく、もっと広い範囲に及んでいるということ。もしかしたら、街の外でも」


 クロエの言葉に、エルナは唇を噛んだ。原因不明のまま、事態の輪郭だけがじわじわと広がっていく。研究者として、それがどれほど落ち着かないことか。


 エルナは五つの観測点のデータを一枚の図表に重ね合わせ、揺らぎの周期を丁寧に書き出していく。数値そのものはばらばらでも、揺れが強まるタイミングにはどこか共通したリズムがあるように見えた。だが、それが何を意味するのか、今の段階では判断のしようがない。


「周期性があるようにも見えるけど、まだ断定はできない。データが足りなさすぎる」


「明日からは、記録の頻度を上げましょう。一時間ごとの記録じゃ粗すぎる」


 クロエの提案に、エルナは頷きながらも、ふと手を止めた。


「……原因が分からないのが、一番気持ち悪い」


 エルナはそう漏らすと、羽根ペンを机に叩きつけるように置いた。長年、数々の理不尽な扱いを受けながらも、自分の理論と観測データだけは決して裏切らないと信じて研究を続けてきた。だからこそ、目の前で起きていることの正体がまったく掴めないという状況が、彼女の神経を苛立たせていた。


「焦っても、原因が早く分かるわけじゃない」


 クロエが静かに窘めるように言う。エルナは深呼吸を一つして、乱れた感情を落ち着けた。


「わかってる。……わかってるわよ。でも、こんな感覚は初めてなの。何かに向かって研究を進めているんじゃなくて、何かに追い立てられているみたいで、落ち着いて考えることすら難しい」


 エルナの脳裏に、魔導連邦にいた頃の記憶がふとよぎった。来る日も来る日も、成果を横取りされ、研究資金を絶たれ、それでも諦めきれずに一人で装置と向き合い続けた日々。あの頃感じていた焦燥感と、今この瞬間に感じている焦りとは、種類が違う。あの時は、理不尽な人間関係との戦いだった。だが今は、正体すら分からない何かとの、静かで一方的な対峙だ。人間相手であれば、いつか論理と実績で捻じ伏せられるという確信があった。だが、この揺らぎの向こう側にいるものが何なのか、エルナにはまるで見当がつかない。


「クロエ。あなたは、怖くないの?」


 珍しく弱気な問いを口にしたエルナに、クロエは少し驚いた顔をしたが、すぐにいつもの静かな表情に戻った。


「怖い。分からないものは、いつだって怖い。でも、分からないままにしておく方が、私はもっと怖い」


 その言葉に、エルナは小さく笑った。


「……相変わらず、あなたは合理的ね」


「あなたほどじゃない」


 軽口を交わし合うことで、張り詰めていた空気が僅かに緩んだ。二人はしばらくの間、無言のまま机の上のデータを見つめ続けた。


「一人で抱え込む必要はない。私も、あなたと同じものを見ている」


 その言葉に、エルナの強張っていた肩から、僅かに力が抜けた。魔導連邦にいた頃には決してなかった感覚だった。誰かと並んで、同じ謎に向き合っている――それだけで、拭いきれない不安の中にも、確かな支えがあることを、エルナは静かに実感していた。


「……ありがとう、クロエ」


「礼はいい。それより、明日はもう少し観測点を増やしましょう。データが増えれば、何か見えてくるはずだから」


 エルナは小さく頷き、机の上に広がる不規則な数値の羅列に、改めて視線を落とした。答えの見えない謎を前に、二人の夜はまだしばらく終わりそうになかった。



    



 その頃、見回りの途中で研究棟に立ち寄ったカイが、灯りの点いたままの窓に気づいて顔を出した。


「こんな時間まで作業ですか。無理しないでくださいよ」


「カイ? ……ちょうどいいところに。あなた、昨日の夜、変な気配を感じたって本当?」


 エルナに問われ、カイは少し驚いた顔をしたが、素直に頷いた。


「ああ、はい。うまく言葉にできないんですが、これまで感じたことのない、嫌な感じでした。方角も距離もわからないくらい、漠然としたものでしたけど」


「……そう」


 エルナとクロエは、机の上のデータと、カイの言葉とを、無言のうちに重ね合わせていた。目に見えない大気の異常と、カイの感知した禍々しい気配。関連があるのかどうかは分からない。だが、少なくとも、この街の何かが、これまでとは違う段階に差し掛かりつつあることだけは、三人の間で暗黙のうちに共有されていた。


「レインさんの神眼鑑定もはっきりしないって聞きました。何か、大きなことが起きる前触れなんでしょうか」


 カイの問いに、エルナはすぐには答えられなかった。研究者として、確証のないことを軽々しく口にはできない。だが、胸の奥に広がる予感は、否定しようもなく確かなものだった。


「わからない。だからこそ、調べる。それが私たちにできる、唯一のことだから」


 カイは小さく頷き、詰所へと戻っていった。窓の外に彼の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、エルナは再び机に向き直る。


 カイが去った後の静かな研究室で、エルナはもう一度、五つの観測点から届いたデータを見返した。数値そのものは相変わらず不規則だが、こうして誰かと言葉を交わした後は、不思議と少しだけ冷静に数字を追えるような気がした。


「明日は、観測の頻度をもっと上げましょう。あと、可能なら周辺の村や集落にも、簡易的な観測点を置けないか、ミーナに相談してみる」


「街の外まで? 大掛かりになるわね」


「大掛かりでも、必要なら仕方ない。私たちの手の届く範囲だけを見ていても、全体像は掴めない」


 クロエの言葉に、エルナは頷いた。研究室の中だけで完結する謎ではないという確信が、二人の間で静かに固まりつつあった。


 深夜近く、二人はようやく作業の手を止めた。積み重なった資料の山を前に、エルナは大きく伸びをする。


「今日はここまでにしましょう。これ以上は、頭が働かない」


「珍しいわね、あなたがそんなことを言うなんて。いつものあなたなら、朝まで机に向かっていそうなものだけれど」


「疲れてるのよ、色々と。それに、明日からはもっと忙しくなる。観測点を増やして、記録の頻度も上げて、周辺の集落への相談もしなければいけない。今のうちに休んでおかないと、体が持たないわ」


 エルナは苦笑しながら椅子から立ち上がった。窓の外では、いつもと変わらぬ星空が広がっている。だが、その静かな夜空の下で、大気そのものが、これまでとは違う何かを孕みながら、揺れ続けていた。答えの見えない謎を前に、まだ姿の見えない脅威に対して、研究者としての二人の探究心が、静かに、しかし確かに火をつけられていく夜だった。

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