第22話 帝国軍、侵攻開始
その報せがアーレントに届いたのは、夜明け前のことだった。
商人ギルドの伝令網を使って駆け込んできた使者は、馬を乗り潰す勢いで峠を越えてきたらしく、事務所の扉を叩く手は震えていた。泥と汗にまみれた外套からは、長時間馬を走らせ続けた疲労がありありと見て取れた。
「レイン様……! 帝国軍が、アストリア王国西部の国境を突破しました! 昨晩のうちに侵攻を開始したとのことです!」
レインは寝間着のまま部屋を出て、報せを受けた。予期していたことではあったが、それでも実際に動き出した現実の重みは、また別のものとして胸に落ちてくる。傍らに控えていた使用人が慌てて灯りを持ってくる中、レインは冷静に問いを重ねた。
「詳しい状況は」
「まだ断片的な情報しか。ですが、国境守備隊はほとんど抵抗できずに崩れたと……」
使者の声には隠しきれない動揺があった。レインは一つ頷き、すぐにミーナとヴァルドへの使いを走らせるよう指示を出した。
王都からさらに詳しい報が届いたのは、その日の昼過ぎだった。国境の防衛線は、予想を大幅に下回る速度で崩壊していた。国王は王都への立て籠もりを命じたが、既に兵士たちの士気は底を打っており、命令はほとんど機能していないという。
「無血占領、ですか」
商会の会議室に集まった面々を前に、セリアがぽつりと呟いた。届いた報告書に目を通す彼女の指先が、わずかに強張っている。
「帝国軍は、目立った略奪も虐殺も行っていません。むしろ、占領した町では税を一時的に軽減し、治安維持にも力を入れているとの情報があります」
「懐柔策ってわけね」
ミーナが腕を組みながら言葉を継いだ。
「王国の民からしたら、圧倒的な兵力差の前に抵抗する意味もない。おまけに、今の王国よりも帝国の方がまだマシだって空気が広まってる……そういうことでしょ」
セリアは静かに頷いた。元王女である彼女にとって、それは複雑な感情を伴う情報だったが、表情に大きな変化は見せなかった。
「王国という看板そのものが、既に民の信頼を失っていたということです。国王陛下の失政は、今に始まったことではありませんから」
その言葉には、かつて宮廷の内側にいた者だけが持ち得る、乾いた諦観が滲んでいた。
午後、レインは辺境伯ヴァルドの執務室を訪れていた。昨日交わした防衛の話が、一夜にして現実味を帯びたものになっている。
「アーレントの防衛について、改めて確認したいことがあります」
「うむ。侵攻が始まった以上、悠長なことは言っていられん」
レインは静かに目を閉じ、神眼鑑定を発動させた。国境を突破した帝国軍の動きを、地図の上に広がる無数の光の筋として捉えていく。侵攻ルート、部隊の規模、進軍の速度――それらが、視界の中に次第に像を結んでいった。
しばらくして、レインは目を開けた。
「帝国軍の主力は、王都と、その周辺の主要都市を目標にしています。この辺境地域――アーレントに向けて、直接軍を割く動きは今のところありません」
ヴァルドは安堵とも警戒とも取れる息を吐いた。長年この地を治めてきた男の顔には、都市への昇格を果たした誇りと、これから訪れる混乱への不安が入り混じっていた。
「それは、朗報と受け取っていいのか」
「短期的には、そう捉えて構わないと思います。ただし……」
レインは一拍置いて続けた。
「周辺の領地が次々と帝国の支配下に置かれることで、物流と交易路が寸断されるリスクがあります。アーレントが直接攻められなくても、干上がる形で追い詰められる可能性は十分にあります」
ヴァルドの表情が再び険しくなった。
「街道が使えなくなれば、鉱石も、食料も、身動きが取れなくなる」
「ミーナが既に代替ルートの検討に入っています。南回りの交易路と、獣王国側との連携も視野に入れて動いているところです」
「相変わらず、手が早い」
ヴァルドは短くそう漏らすと、深く息をついた。
その頃、ミーナは商会の一室で地図を広げ、流通部の責任者たちと額を突き合わせていた。
「カルベン峠が使えなくなる前提で考える。南に迂回する山道はいくつか候補があるけど、荷馬車が通れる幅があるかどうか、確認が必要ね」
「南回りは距離が伸びます。輸送コストも跳ね上がりますが」
「それでも、途絶えるよりはマシでしょう。それに――」
ミーナは地図の一点を指でなぞった。
「獣王国側の国境沿いに、小さな交易拠点がいくつかある。あそこと直接繋がれれば、王国を経由しない新しい交易路が作れるかもしれない」
責任者の一人が驚いた顔を見せた。
「獣王国と直接、ですか」
「今はまだ構想の段階よ。でも、この街が生き残るためには、王国という枠組みに頼らない交易網を、今のうちから作っておく必要がある」
ミーナの声には、迷いのない意志があった。奴隷市場から自らの手で這い上がってきた彼女にとって、危機は同時に好機でもあるということを、経験として理解していた。
「まずは獣王国側の拠点に、内密に使者を送りましょう。正式な交渉じゃなくていい。まずは向こうの反応を探るだけで十分」
「誰を向かわせますか」
「口が堅くて、交渉ごとに慣れてる人がいいわね。……ダグラスに頼んでみましょうか」
責任者たちが頷くのを確認すると、ミーナは地図を丸めながら立ち上がった。窓の外に広がる難民の群れを一瞥し、彼女はふっと息を吐いた。
「この街に人が集まってくるのは、悪いことじゃない。でも、支えきれなくなったら意味がない。……やることは山積みね」
そう言い残すと、ミーナは足早に次の仕事へと向かっていった。
研究室では、クロエがエルナと共に、アーレントの防衛に使える結界の設計案を練っていた。
「街全体を覆う結界となると、必要な魔力量が現実的じゃない。優先順位をつけるべきだと思う」
クロエが資料に描き込んだ図面を指し示しながら言うと、エルナは腕を組んで唸った。
「重要施設――商会の本部、研究室、医療施設、それと城壁の主要な門。この四点を核にした結界網なら、必要な魔力量を大幅に抑えられるはずよ」
「侵入者の検知と、簡易的な防御。この二段構えでどう?」
「悪くない。ただ、検知の精度を上げようとすると……」
エルナはふと言葉を止めた。手元の資料には、防御用の結界だけでなく、対象を無力化するための術式の走り書きが、いつの間にか書き加えられていた。
「これ、使い方次第では、攻撃にも転用できてしまうわね」
クロエも自分の描いた図面を見返し、無言で頷いた。研究者としての探究心は、時にその技術がどこまで踏み込めるかという境界線を、意図せず越えようとする。
二人はそのまま、レインのもとへ報告に向かった。
「防衛用の結界の設計は順調に進んでいます。ただ、術式を少し応用すれば、攻撃的な用途にも転用できる可能性が出てきました」
エルナが率直にそう告げると、レインはしばらく黙考した後、静かに口を開いた。
「その研究は、あくまで防衛目的の範囲に留めてほしい」
「攻撃用としての可能性は、放棄するということ?」
「今は、そうだ。この街が力を誇示する必要はない。守るべきものを守るための力であれば十分だ。もし将来、本当にその力が必要になる時が来たとしても、それは今日決めることじゃない」
エルナは少しの間、レインの顔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「わかったわ。防衛の範囲で、最善のものを作る」
クロエもまた、静かに同意を示した。研究者としての矜持と、この街の一員としての自覚。その両方を胸に抱えながら、二人は再び研究室へと戻っていった。
医療施設では、リリアが難民たちの間に広がる不安の声を耳にしていた。
「帝国が攻めてきたって……」「私たちの家族はどうなるの」
診療の合間、患者たちの口からこぼれる言葉には、恐怖よりもむしろ、行き場のない諦めが色濃く滲んでいた。リリアはそのたびに、手を止めずに静かな声で答える。
「大丈夫。ここにいる限り、あなたたちは守られています」
自分でもその言葉にどれほどの重みがあるのか、正直なところ分からなかった。それでも、不安に揺れる人々の前で足を止めるわけにはいかない。かつて聖女として振る舞っていた頃とは違う、もっと地に足のついた覚悟が、リリアの中に根付き始めていた。
診療の合間を縫って、リリアは自警団の詰め所にも顔を出した。ちょうど見回りから戻ってきたカイと鉢合わせる。
「カイ君、お疲れ様。何か変わったことは」
「今のところは特に。ただ、街の空気がいつもと違う気がします」
カイは腰の剣に触れながら、遠くの空を見やった。侵攻の報せは既に街中に広まっており、誰もが浮足立っている。それでもカイの目には、恐れよりも、何かを見極めようとする静かな光が宿っていた。
「レインさんが直接標的にはならないって言ってたから、少しは安心してるけど……油断はできないですよね」
「そうね。でも、あなたがそうやって気を張ってくれているだけで、みんな少し安心できると思う」
リリアの言葉に、カイは少し照れたように頭を掻いた。かつて空腹のまま倉庫裏で眠っていた孤児の少年は、今や街の安全を担う一員として、確かな存在感を放ち始めていた。
商会の一室では、セリアが届いたばかりの報告書を丹念に読み込んでいた。王都から逃れてきた元官吏たちの情報網を通じて、宮廷内部の混乱がより詳細に伝わってきている。
「国王陛下は、いまだに事態を軽く見ておられるようですね」
セリアの声には、驚きも失望もなかった。ただ事実を確認するだけの、乾いた響きがあった。傍らに控えるハインツが、静かに頷く。
「王都に留まっている貴族の多くも、既に見切りをつけつつあります。密かに帝国側への恭順を申し出ている家門もあると聞きます」
「王国という船が沈む前に、乗り換え先を探しているというわけですか」
セリアは報告書を閉じ、窓の外に目をやった。かつて自分がその中枢にいた王国が、まさに音を立てて崩れようとしている。奇妙なことに、その光景を眺める自分の心は、驚くほど凪いでいた。
「レイン様は、この状況をどう見ておられるのでしょう」
ハインツの問いに、セリアは少し考えてから答えた。
「レイン様は、感情で状況を判断しません。ただ、この街に集まった人々を守るために、最善の手を淡々と打ち続けるだけです。……その姿勢に、私は何度も救われました」
セリアの言葉には、単なる主従関係を超えた、静かな信頼が滲んでいた。
夜、事務所の一室でレインは一人、手帳を開いていた。今日一日で起きた出来事を、いつものように短く整理していく。
「帝国軍、侵攻開始。王国の防衛線は崩壊。アーレントへの直接的な脅威は当面なし。ただし、周辺領地の掌握による孤立のリスクあり」
ペン先を止め、レインは窓の外に視線を向けた。遠く、王都の方角の空が、わずかに赤く染まっているように見えるのは、気のせいだろうか。
かつて自分を追放した国が、まさに終わりを迎えようとしている。その事実に対して、レインの胸に去来するのは怒りでも喜びでもなかった。ただ、これからこの街が背負うことになる責任の重さを、静かに噛みしめるだけだった。
手帳のページをめくると、そこには第一話の頃に書き記した「あと十七ヶ月と二週間」という予言の文字が、今も色褪せずに残っている。あの頃はまだ、辺境の小さな商会を興したばかりの身だった。それが今では、街の存亡そのものを左右する立場になっている。時の流れの速さに、レインは小さく息をついた。
「守るべきものを、間違えないようにしないとな」
小さく呟くと、レインは新たなページに、今日確認した帝国軍の侵攻ルートと、周辺領地の状況を簡潔にまとめた図を描き加えた。手帳は既に何冊目かに差し掛かっており、そのどれもが、この街の歩みをそのまま記録した年代記のようになっていた。
窓の外では、難民たちの焚き火の灯りが、暗闇の中にいくつも点々と灯っていた。その一つ一つが、この街に託された小さな命の証だった。レインはしばらくその光を眺めた後、蝋燭を吹き消し、静かに目を閉じた。
王都では、国王が側近たちを前に苛立ちを露わにしていた。防衛線の崩壊の報告を受けても、なお現実を直視できずにいるその姿は、王国という国そのものの終わりを、静かに、しかし確実に象徴していた。かつて「役立たずに税金は使えん」とレインを切り捨てたその口が、今は苦し紛れの言い訳を並べ立てるだけになっている。玉座の間に響く怒声は、もはや誰の耳にも届いていなかった。




