第14話 エルナ・シルフィードとの邂逅
商人ギルドのネットワークとは、時に国境すら超える。
レインが最初にエルナ・シルフィードという名を耳にしたのは、第12話でセリアの安否を探っていた頃、商人ギルドの伝手を辿る過程で偶然引っかかった一つの情報からだった。魔導連邦に、型破りな研究成果を連発しながらも、学術機関からは疎まれている変わり者のエルフの研究者がいる――そういう噂だった。
神眼鑑定で確認すると、その人物の未来像は驚くほど明瞭に浮かび上がった。
レインは手帳の隅に短くその名を書き留め、静かに機会を待っていた。
そして今、その機会が訪れた。
*
アストリア王国と魔導連邦の国境近くに、ハルム交易所という名の小さな町がある。
二つの国の商人が行き交うこの町は、どちらの国の法にも厳密には縛られない、いわば灰色の自由地帯だ。商人ギルドのネットワークを通じて連絡を取り、レインとミーナが指定したのは、この町の中程にある小さな宿の一室だった。
待ち合わせの時刻より少し早く、レインとミーナは宿の部屋に入った。
「本当に来ますかね」
ミーナが小声で言いながら、部屋の隅の椅子に腰を下ろす。
「来る。神眼鑑定で確認済みだ」
「でも、見ず知らずの商会から突然連絡が来て、素直に応じる研究者というのも……」
「彼女は今、追い詰められている。追い詰められた人間は、思わぬところから差し伸べられた手を、案外素直に掴むものだ」
ミーナはそれ以上は言わずに、静かに紅茶を口に含んだ。
約束の時刻より十分ほど遅れて、扉を叩く音がした。
「……どうぞ」
扉が開くと、そこに立っていたのは、長い銀髪を無造作に束ねた若い女性だった。尖った耳が、彼女がエルフであることを示している。だが、貴族的な優雅さとは無縁の出で立ちで、着古したローブには至るところにインクの染みや焦げ跡がついており、抱えた鞄からは図面と思しき紙の束がはみ出していた。
目の下には薄い隈があり、明らかに睡眠が不足している。だが、その瞳には疲れとは別の光――好奇心の炎が、確かに宿っていた。
「……未来商会、の方々でよろしいですか」
「ええ。レイン・アークと申します。こちらはミーナ」
「エルナ・シルフィードです」
彼女は名乗ると、招かれるまでもなく、さっさと空いている椅子に腰を下ろした。警戒心というより、単純に疲れているのだろうと、レインは思った。
*
「単刀直入に聞かせてください」
エルナは鞄を床に置きながら、真っ直ぐにレインを見た。
「あなた方が私に接触してきた理由は何ですか。辺境の商会が、魔導連邦の研究者に用があるというのは、あまり一般的な話ではないと思いますが」
「おっしゃる通りです」
レインは静かに頷いた。
「単刀直入にお答えします。我々は、エルナ殿の研究成果に着目しています。特に、魔道具と特定の鉱石の組み合わせによる魔力増幅の研究――あれは、将来的に非常に大きな価値を持つと判断しています」
エルナの表情が、わずかに変わった。
「……その研究は、まだ公表していません」
「存じています」
「では、なぜ」
「我々には独自の情報収集の手段があります。詳細はお伝えできませんが、エルナ殿の研究が今後どのような可能性を持つか――それを正確に把握する方法が、我々にはあります」
エルナはしばらく無言でレインを見つめた後、短く息を吐いた。
「……魔導連邦の上層部と、何か繋がりがありますか」
「いいえ」
「本当に?」
「本当に。むしろ、今のエルナ殿が置かれている状況――研究資金の不足、成果を横取りされている問題、学術機関からの冷遇――そういった状況を生み出している側とは、我々は一切関係がありません」
その言葉に、エルナは目を細めた。
研究資金の不足と成果の横取り。それは、エルナが魔導連邦で長年抱え続けてきた、最も深い傷だった。三年前に発表した魔力結晶の精製技術は、気づけば別の研究者の名で論文化されており、エルナが抗議しても「証拠がない」の一言で握り潰された。
誰かがその事情を知っているということ自体、エルナにとっては驚きだった。
「……何が目的ですか」
「スカウトです」
レインはまっすぐにそう言った。
「エルナ殿に、未来商会の専属研究者として来ていただきたい。研究資金は我々が全額負担します。研究成果の権利は、エルナ殿に帰属します。横取りする者は、我々の商会には一人もいません」
沈黙が落ちた。
エルナはしばらく、虚を突かれたように動かなかった。
*
「……冗談ですか」
エルナが静かに言った。
「本気です」
「辺境の商会が、研究者に専属契約を? 研究資金を全額負担? 成果の権利を研究者に?」
「はい」
「……何のメリットがあるんですか、あなた方に」
「エルナ殿の研究成果が、将来的に商会の事業に不可欠なものになると判断しているからです。詳しくは、実物を見ていただいた方が早いかもしれません」
レインは静かに、布に包まれた小さな物体を取り出した。
包みを解くと、現れたのは、握りこぶしほどの大きさの鉱石だった。深い藍色と、僅かに緑がかった光沢を持つ、見たことのない種類の石だ。ほんのわずかに、内側から光が脈打つように揺れている。
エルナの目が、その瞬間に変わった。
「……これは」
椅子から立ち上がり、鉱石に顔を近づける。研究者としての本能が、疲労も警戒心も一瞬で上書きしていた。
「触れてもいいですか」
「どうぞ」
エルナは慎重に鉱石を手に取り、光にかざし、指先で表面をなぞり、目を細めながら観察した。数十秒ほどそうしていた後、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……魔力の伝導性が、通常の鉱石の比ではない。しかも、魔力を吸収するのではなく、増幅して放出している。こんな性質の鉱石、見たことがありません」
「そうでしょう。現時点では、世界のどこにも流通していない。正確には――まだ正式には発見されていない鉱石です」
「発見されていない? では、これはどこから」
「辺境の鉱脈の、深層部から採取しました。ただし、現段階では試掘の段階に過ぎません。本格的な採掘が可能になるのは、五年ほど先の見込みです」
エルナはしばらく鉱石を見つめたまま、黙って考え込んだ。
この鉱石が持つ特性は、エルナが三年にわたって追い求めてきた研究の核心と、完璧に噛み合っていた。魔道具の出力を飛躍的に高めるためには、魔力の増幅効率を上げる媒介素材が不可欠だ。これまでは理論上の話に過ぎなかったが、この鉱石が存在するなら――
「……あなた方は、私の研究内容を把握した上で、この鉱石を持ってきたんですね」
「はい」
「つまり、この鉱石と私の研究を組み合わせれば、何ができるか――そこまで計算した上で、スカウトに来たということですか」
「おっしゃる通りです」
エルナは再び鉱石を見つめた。その瞳の奥で、何かが急速に燃え上がっていくのが、レインにも分かった。
*
「……一つ聞かせてください」
エルナが静かに言った。
「研究の方向性は、自分で決められますか」
「基本的には、はい。ただし、商会の事業と全く無関係な方向に進む場合は、都度相談をお願いしたいと思っています」
「資金の上限は」
「現時点では明確な上限を設けていません。必要なものがあれば、都度申請していただく形で構いません」
「成果の発表は」
「商会の許可を得た上で、エルナ殿の名で自由に発表していただいて構いません。むしろ、エルナ殿の名声が高まることは、商会にとってもプラスになります」
エルナは腕を組み、視線を斜め上に向けた。レインは急かさず、ただ静かに待った。
ミーナが横で息を殺しているのが分かった。
やがて、エルナはゆっくりと視線を戻した。
「……移住の準備に、少し時間をください」
「どのくらいかかりますか」
「一ヶ月もあれば十分です。魔導連邦に残していくものは、ほとんどないので」
その最後の一言に、レインは何も言わなかった。だが、ミーナがそっと息を吐いたのが聞こえた。
「分かりました。準備が整い次第、こちらまでご連絡ください。住居と研究室の準備は、我々の方で進めておきます」
「……一つだけ」
エルナが立ち上がりながら、ふと付け足した。
「この鉱石、今日のところは持って帰ってもいいですか。一ヶ月、研究させてください。移住前に、自分の研究と本当に噛み合うかどうか確かめておきたい」
レインはわずかに口元を緩めた。
「どうぞ。それはエルナ殿への手付けだとお考えください」
エルナは一瞬きょとんとした後、鉱石を大事そうに抱え、深々と頭を下げた。
*
エルナが宿を出た後、部屋にはレインとミーナだけが残った。
ミーナはしばらく扉を見つめていたが、やがてふっと息を吐いた。
「……行きましたね」
「ああ」
「来てくれてよかったです。断られたらどうしようかと、実は内心かなり緊張していました」
「神眼鑑定で来ると確認していた」
「それでも、ですよ。実際に目の前で話が進むまでは、どうにも落ち着かなくて」
ミーナが苦笑いを浮かべながら、空になったカップを片付け始める。
「それにしても、あの鉱石を手に取った瞬間のエルナさんの目……あれは本物ですね。研究者として、本物の情熱を持っている人の目でした」
「ああ。だからこそ、今の環境では埋もれてしまっている」
レインは静かに窓の外を見た。ハルム交易所の町並みが、夕暮れの中に沈んでいく。
「エルナ殿の研究が本格的に動き出せば、未来商会の魔道具事業は大きく変わる。そして、それだけに留まらない」
「留まらない、というのは」
レインはしばらく黙った後、静かに言った。
「神眼鑑定で、この鉱石を見たときに一つ気になるものが見えた。エルナ殿の研究と、この鉱石の組み合わせが、将来、ある武器の覚醒に深く関わってくる可能性がある」
「武器の、覚醒?」
「詳細はまだはっきりしない。だが、見えた未来の断片の中に、一振りの剣が映っていた。今は錆びて、その価値が誰にも分からない剣だ。しかし、エルナ殿の研究が進んだ先に、その剣が本来の姿を取り戻す条件が揃う」
ミーナは目を丸くした。
「それは……一体、誰の剣ですか」
レインは小さく首を振った。
「今は、まだその時ではない。ただ――」
レインは手帳を取り出し、ペンを走らせた。
『エルナ・シルフィード、スカウト承諾。一ヶ月後に移住予定。研究室の準備を急ぐこと。また、彼女の研究は将来、ある剣の覚醒条件に関わる可能性大。詳細は引き続き確認する』
手帳を閉じ、レインは立ち上がった。
「帰ろう。アーレントでやることが増えた」
「研究室の準備ですね」
「ああ。エルナ殿が来た時に、すぐに研究に取り掛かれるだけの環境を整えておく。それが我々のやるべきことだ」
ミーナは頷き、荷物を手に取った。
二人が宿を出ると、ハルム交易所の町には既に夕闇が漂い始めていた。石畳の道に、商人たちの足音が響いている。
遠く、魔導連邦の方角に目をやりながら、レインは小さく息を吐いた。
また一つ、未来の布石が打たれた。
まだ誰も知らない未来へと向けて、辺境の商会は確実に、その歩みを続けていた。




