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泡沫の平穏

 目を覚ませば、懐かしい天井が広がって、コーヒーの香りが鼻をくすぐった。

 昨晩、夕食をとった後に母と父と話をした。泣きながら、時折言葉をつまらせながら、何があったのかをゆっくりと伝えた。

 毎日の残業、帰る時間が遅いからスーパーは閉まっていて、ろくに料理をする気にもならず、部屋の中も荒れ放題。夜や休日も、頭の中から仕事の事が消えずに眠れなくなったことを話した。土日にご飯作り置きをしておけばいいのにと言われる事もあったが、そんな気力がどこにもなかった。頑張ったつもりだったが、頑張ってなかったのかもしれないと告げると、そんな事はないと、母も父も私の頑張りを認めてくれた。

 ゆっくり休もう、それが今の仕事だからと、休むことを責められなかった。いつも時間が勿体無いからとシャワーですませていたけれど、昨日は湯船に久々に浸かった。ゆっくりと時間は流れるが、休んでいる事への罪悪感は消えてはくれず、つう、と頰がまた濡れた。それでも涙が引っ込むには、あまり時間はかからなかったのは、実家の安心感のおかげだったのだろうか。

 眠剤を飲んですぐベッドに潜り込み、入眠するのにはおそらくさほど時間がかからなかったし、中途覚醒する事もなく朝を迎えて、今に至る。

 寝間着のまま1階へ下りると、両親はもう仕事着に着替えていた。おはようと言わんばかりに、愛犬が二匹私の足元をちょろちょろと動き回っている。

 時計を見ると8時を過ぎていた。もう2人とも仕事に行く時間かと、私は父の淹れたコーヒーをマグカップに移し替えて一口飲んだ。面倒だからとコーヒーすら自宅で淹れなくなってしまったのだけど、やっぱり朝のコーヒーは美味しい。


 …美味しい?


 何やら胸がざわついた。今までの食事がどれだけ義務的で、美味しさを感じる事もなく、生きる為だけの食事だったのかを思い出す。同じ弁当を買って、同じおやつを買って、同じ朝ごはんを買って、時折昼ごはんが変わるだけ。コンビニで全てを調達していた。味わう事もなくて、ただの塊を食事にしていただけ。全てが億劫だったのだ。

 それが経った一日、実家で過ごしただけで、私の味覚は少しまともになったようだ。


「パン焼いて食べて。サラダは冷蔵庫の中ね」

「はーい」


 母は歯を磨きながら台所を指差した。食卓に座って新聞を広げる父におはようと告げると、おはよう、よく眠れたかいと問いかけられる。そういえば途中で目を覚まさずに眠れたなと頭の中で考えて、うん、よく眠れたと父に返答する。

 台所にはラップのかけられた食パンが一枚。パンの上にはベーコンとピザソース、チーズが載せられていた。これも私の大好物だ。オーブントースターにパンをセッティングしてつまみを回す。その間に、冷蔵庫からサラダを取り出した。ドレッシングをどれにしようかと吟味して、ゴマだれの瓶に手を伸ばす。

 トースターが完了の音を鳴らしたので、皿にトーストを移し替える。食欲をそそる匂いのはずなのだが、今日はあまり心が動かなかった。昨日のミートスパゲティ程のワクワクは生まれなかった。

 席についてピザトーストに齧り付く。その間に、母と父は仕事の支度をすべて終わらせて、行ってくるねと出勤していった。玄関の扉が閉まった途端に、部屋の中が静まり返る。

 私の足元では、おこぼれを欲しがって、ぷんが瞳をキラキラさせながらお座りをしている。食にあまりがめつくないくぅは、寝床で丸くなっている。

 テレビからは興味のないニュースが流れているのだが、段々とその音はただの雑音になっていく。テレビキャスターの笑顔が胡散臭く見えて、くだらない事で笑うコメンテーターに不快感さえ覚えた。私はテレビの電源を切った。殊更部屋の中には音がほとんどなくなった。代わりにスマホでお気に入りの曲をかける。お気に入りのはずなのに、気持ちはあまり上がってくれない。

 食欲があって食べられる事はいい事なんだろうが、だんだんと私の大好物は無味になる。いや、味はあるのだが、心が踊らないというべきか。

 時間をかけて朝食を食べ終えて、食器をシンクに下げる。水に浸からせて後で洗うことにしようと、コップを食器乾燥機の中から取り出した。水を注いで、台所に置かせてもらっている小さな袋を掴んで、私は食卓に戻る。

 どっこいしょ、と腰を下ろすだけなのに動作はどこか重たい。処方された薬を袋から取り出して、シートから取り外す。一気にぐいっと飲み込んで一息つくと、ふと、頭の中に現れたのは…不安だった。

 得体のしれない不安。仕事は回っているだろうかとか、母と父は事故に遭わないだろうかとか、万が一薬が転がって犬達が食べてしまうかもとか、次から次に起こるかどうかもわからない事象で埋め尽くされていく。


(消えろ、消えろ、消えろ)


 そう願っても、不安は全く消えてくれない。これが私の天敵。何をしても付きまとってくるストーカーなのだ。目が覚めて、少し良くなったのかもなんて期待は打ち砕かれる。環境を変えても、奴らは変わらず襲ってくる。気を紛らわすために、私は台所に立った。シンクに溜まった皿やコップを洗うことにした。頭の中では大熱唱。あれは大丈夫か、あれは危ない、これは大丈夫か、これも危険だ。


(うるさい、うるさい、うるさい!)


 考えているのは自分だというのに、誰かに囁かれて、ありもしないことを吹き込まれている感覚。なんとか洗い物を終えて、食器乾燥機のスイッチをオンにした。

 私はというと、その場にうずくまって顔を下げた。薬が効いている感覚はあまりない。薬で消えないならこの不安はどうしたらいいんだと、自問自答が続いて、もちろん答えなんて出ない。この不安との戦いは、まだ始まったばかりだった。

動物はいいぞー。もふもふもふもふ。

不安は一度顔を出すと、なかなか消えてくれない。どう頑張っても周りにうざったいぐらい絡みついてくる。

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