コール音は鼓膜を揺らす
休職から2カ月が経った。その間に、職場に足を運んで面談をして、通院して薬をもらうことを繰り返した。仕事に戻らないと、と焦燥感に駆られていて、治っている実感はほとんどなかったものの、主治医に仕事が不安だとは伝えられなかった。結局、時間を調整しながら出勤することになり、今日がその一日目だった。
どう思われているのだろう、面倒な奴が戻ってきたと思われるだろうか、職場に向かう足取りはかなり重たかった。家事は少しずつ出来るようにはなっていたのだけど、仕事となるとまた別だ。怒られるかも、失敗するかも、頭の中は不安で埋め尽くされている。
おはようございます、と事務所に足を踏み入れると、複数の視線がこちらに向いた。吹き出す冷や汗。自分のデスクに着くまで、いくつもの視線がこちらを見ている「気がした」。
カバンを置いて上司の元へと足を運ぶ。おはようございます、と小さく礼をしてから、私は二言目を発した。
「すいません、長い間休んでしまって」
上司の顔を見るのが怖かった。みんなの視線が痛かった。私がいなかった間、私の業務を分担して行ってくれていたのだから、他の職員にも謝らなければと思うのだが、カタカタと少しだけ手が震えていた。上司は無理しないでと言ってくれたのだが、それが本心かどうかを疑ってしまった。他の職員にも頭を下げた。大丈夫大丈夫と、みんなは笑顔だったが、ここでも本心がわからなかった。
デスクの前に座ってパソコンを起動させる。メールの確認はしてもらっていたようで、メールのフォルダは全て開封済になっていた。机の上に綺麗に積まれている書類に目を向けていると、隣に座る後輩から声がかかった。
「それ、終わってるやつなんで、ファイリングしてもらっていいですか」
「うん、わかった。ありがとう」
片付いている仕事だと聞いて、肩の力が抜けた。この山を処理しないと行けないのかと一瞬身構えたのだが、流石に休職明けの人間にあの量をこなせとは言う訳ないかと、書類の束をジャンルごとに仕分けする作業を始めたのだが…。
プルルルル…
私のデスクの電話が鳴った。急に吹き出した冷や汗。取らないと、取らないと、取らないと!3コール目でようやく私は受話器を取った。声が震えそうなのを必死に堪えながら、電話越しの相手からの要件を確認すると、どうやら私の担当の件ではなかった。担当者に変わりますねと、保留のボタンを押して本来の相手へと電話を引き継いだ。
この間、たかだか1分。それなのに私の心臓は早鐘を打っていた。怒られなかった、失敗しなかった、大丈夫だった。大きく息をふぅ、と吐くと、私の背後に誰かが立った。上司だった。
「電話とれたね。大丈夫そうだけど、どう?」
どう?とはなんだろうか。この問いへの正答はなんだろうか。大丈夫でしたと答えるべきか、それとも怖かったですと伝えるべきか。私は笑顔を貼り付けて、「何とかなりました」と答えた。本当は怖いと伝えたかった。電話をとるのも、人と話すのも怖いと…伝えたかった。だけれども、言えなかった。もうこれ以上迷惑はかけられないと思ったから。きっと周りから見たら、とても普通に見えたんだろう。声が震えていたのもバレていないし、緊張で手が汗ばんだことも、心臓がバクバクと音を立てていたこともわかるはずもない。私が言わなければ。
プルルルル…
また電話が鳴った。今度は2コール目で電話を取った。だが、1回目が穏便に済んだために油断していた。電話の向こうの相手は少し不機嫌そうで、私の説明に納得がいかなったらしく、少しずつ口調が厳しくなってくる。申し訳ありませんと姿の見えない相手に頭を下げても、それは全く意味をなさない。どうしよう、どうしようと、頭は警報音をけたたましく鳴らしていた。すると、上司がこっちに回してと伝えてきた。私は、少々お待ちください、と一度電話を保留にしてから、上司にその電話を繋ぐことにした。
上司は相手にわかりやすく伝えていて、向こうも納得したのか、あっという間に電話は終わった。慌てて私は上司の傍へ駆け寄って、深々と頭を下げた。
「すみません、電話代わっていただいて」
「いや、いいよ大丈夫。それよりさ」
上司は、じっとこちらを見つめてきた。若干私が涙目であることに気がついたようだ。
「少し仕事の感覚戻るまで、電話は取らないようにしようか」
電話が怖いことを上司は悟ってくれたのか、私から言い出せなかった事を提案してくれた。その提案を受けるか受けないか、頭の中で会議が始まった。とはいえ、それはものの数秒の事ではあるのだけど。
結局、お願いしますと、その提案を受け入れた。逃げたのだ。まだ本調子ではないからと、自分にもっともらしい理由をつけて。そして始まる反省会。自分を責めて、どうしてできないんだと脳内で自分を律した。情けない、みっともない、たかだか電話だぞ。そう言われたら、もうどうすることもできないのだけど、今の私には…コミュニケーションが苦痛だった。
もしかしたら早すぎたのかもしれない…。ふとよぎった一文は、まだもう少し、心の中で燻ることになる。
電話対応がとても苦手です。顔が見えない分、ものすごく難しい。




