城内の混乱
湾を見下ろす城は夕暮れの光を受けて静かに佇んでいた。
君主は執務室のベランダで海と町を隔てる水面を眺めるこの時間をこよなく愛していた。
潮香の湾処に舟が集まり、篝火が上がるまではグラスを傾けて1日を振り返るこの時間。
――!
突如鳴り響いた見張り塔からの鐘の音が、終わらない1日の始まりを告げた。
君主はこの音の意味を誰よりも理解している。
彼は立ち上がるとグラスを床に投げつけた。
お気に入りのグラスではあったが、今日を境に不吉な思い出になる方が耐えられなかった。
嵐でも事故でもない。襲撃があったときだけ鳴らされる二打目の鐘の音と、グラスの割れる音が重なった。
「来たな」
呟きは誰に向けたものでもなかったが、その言葉通り執務室の扉が開き伝令兵が膝をつく。
「見張りより急報!湾上空東より多数の飛行体を確認。種別、火竜と推定!」
「数は?」
「はっ!…それが……」
――おおよその数を把握せずに報告に訪れる訳などない。あるとすればただひとつ。
「数えきれん…か?」
「御意。なおも増加中…との事」
君主は即座に指示を出した。
「兵士詰所とギルドに緊急伝令。戦時防衛を発令。中庭に集結せい」
「はっ!」
伝令兵が走り去ると同時に、別の兵がすでに廊下を駆けていた。
その足取りに迷いはない。命令は既に周知されている。
――迷いがあるとすれば、儂かの?水龍の導きがあらんことを。
君主が中庭に出る頃には、兵士詰所からの指揮官、国営ギルドの代表がほぼ同時に姿を現していた。
「状況は?」
君主の問いは短く、全員に向けられる。
非常時には指揮官もギルドの見習いも横一列、ただ情報を持つ者のみ発言を許される。
「火竜群は町へ進路を取っています。高度は高いが既に被害あり」
「市街地への到達、早ければ十分以内です」
君主は頷いた。
「訓練通りだ。救助と迎撃を分離せよ。
一隊は市街地救助、すぐにかかれ!」
「「はっ!」」
救助隊は返礼だけを残し、即座に持ち場へ向かう。
「一隊は迎撃。ギルドは迎撃参加者と伝令を除き、全員が兵士救助隊の指揮下に入れ!」
異論は出ない。繰り返した非常時訓練は形だけではなかった。
「伝令役を増やせ」
「市街地全域に避難誘導を回せ」
「港湾部は舟を捨てさせろ」
「全てにおいて人命優先だ」
矢継ぎ早に命じればそれぞれが即座に動き出す。
中庭の空気は張り詰めていたが混乱はない。
――間違えていい、迷うな。
君主は自身の迷いを恐れた。
それは非常時に伝染する死の病だと身に染みて知っている。
襲撃には備えていた。
国、君主とはそうあるべきだ。
だが夕刻に攻め入るとは
市街地での夜戦が狙いなのか?
東側からなのも理解はできる。
だが何故空から?火竜の群れ?
思考は止めずに指示を終えた頃、中庭に残ったのは伝令を除くと将軍とギルドマスターのみ。
旧知の顔ぶれに君主はうんざりとばかりに首を振りながらも少し頬を緩めた。
「不備はあるか?」
「恐れながら殿下、北と西はどうされますか?」
口を開いたのは軍部を取り仕切るハビエル将軍。
「ふむ…。北のサンドライトには伝令を飛ばせばそれで十分であろう。西の守備軍はどうか?」
「はっ!西に動きはないとの事」
「…では北は?」
「サンドライトの鶴から既に伝言が…」
問いに応えたのはギルドマスターのカルロス。
「既に…とな?構わん、報告せよ」
「腕利きが既に入国。
“貴国の水龍となる”…と」
「カルロスよ、其方はどう思う?」
「前に受けた襲撃からヤツらは見張ってたんでしょう…それがラグーナを攻めて来た。鶴が言うなら確かでしょう。腕利きが誰かは知りませんし、連絡手段もありませんがね」
「ハビエル、サンドライトが受けたのはオロディアからの襲撃であったかの?」
「御意。ムタレン将軍の軍で間違いありません」
「此度の襲撃はオロディアと思うか?」
「報告は火竜との事。ならば可能性としてはあり得るかと」
――迷わずにはおれんな。
他のものがおらぬのが救いか。
「ふむ。まずは撃退してから…かの。状況を確認しに物見に上がる。カルロス、指揮を任せる」
この場での指示を終え、ハビエル将軍を従えて東側の物見櫓へと向かおうとしたそのとき――城門側がざわめいた。
兵士が声を上げるより早く、何かが空を割り続けて衝撃音とともに影が落ちる。
土煙の中から立ち上がった巨体を、君主は冷静に見据えた。
――湾から飛んできたのか…手下にこのような芸当が出来るものはいまい。
「オリバー!?」
兵士の一人が叫ぶ。
その名に、場の緊張がわずかに揺れた。
訪問者でありながら、この国の非常時の手順を理解している男は周囲を見回すと君主の姿を確認しそっと膝をついて口を開いた。
「…状況は?」
「火竜群が接近中。迎撃部隊は展開済みだ」
「間に合わない」
オリバーの短い言葉に誰も反論しない。
空を見た者には分かっていた。
数が多すぎるのだ。
「――殿下」
オリバーの声が低くなる。
「被害は最小限に食い止めます。非常時ゆえ手段は問わないで頂きたく――」
彼が言葉を終えるよりも早く、空気が変わった。
城からでも炎の揺らぎと熱は感じていた。
城にいた誰もが、それを見たわけではない。
だが感じた。――時間が凍った、と。
君主は、ただ空を仰いでいた。
説明はまだだった。
が、必要もなかった。
やがて凍りついた空が砕けるような感覚とともに世界が動き出すと、頭上から歓声とも驚きともつかぬ声が上がった。
「……状況は?」
ハビエル将軍が物見の兵に報告を求める。
「火竜は――全滅。
火が…凍っています」
報告を聞き、君主は深く息を吐いた。
「全隊に伝令。被害状況の報告。
迎撃部隊は東側の警戒に当たれ。
――してオリバーよ。
報…いや、説明して貰えるかの?」
君主の言葉は、兵士も将軍も含め、居合わせた全ての者の総意であった。
――無論、オリバーにとっても。




