戦いの目撃者
櫂の上にソファをセットしたオリバーが、掛け声とともにそれを振り上げる。
「あっ。今度はいい感じね」
「うむ。過去イチかもしれんな」
冷静に行方を見守るセレナとオリバー。
「聞いていいか?着地はどうするんだ?」
「ピエール?私たちはやらないわよ!あんなの絶対に無理だから!」
飛距離を話題にするセレナとオリバーに対して、冷静にソファの行方を見送るピエール夫妻。
「大丈夫よ。風の膜で覆ってるから。さ、私たちも行きましょうか。船頭さん?できるだけ早く岸に着けてね」
一部始終を見ていた船頭に露店舟の売り子たちは、セレナの言葉に慌てて舟を操作する。
「そこ開けろ~」
「この舟を先に通すんだ!」
「今の…見たか?」
「見てたよ!だからこの舟の連中を先に岸に上げるんだ」
「お~い!ブツけていいから後ろから押せ~!」
「意外と早く着きそうね。2人とも私から離れちゃダメよ?」
「東側から、か。嫌な予感しかしないな」
「「あ、落ちた!」」
――――――――――――――――――
船頭たちの必死の操船で岸に降り立った4人のうち、巨大な影が一つ。町の一角の建物を目指して砲弾のように放たれた。
「何?今の?」
「オリバーよ。2人は私について来て!走るわよ!」
「火の手が上がっている方か?」
「少しでも早く、着いたら私から離れないで!」
「私も何か役に立てない?」
炎に揺れる町へ駆ける3人だったが、先頭のセレナが足を止めずに振り返る。
「ファニー。あなたの力が必要だわ。テティスに強く願って!こんな状況であなたには無理を言うけど、そのコに賭けるわ。雨を降らせて!」
――普段冷静なセレナの逼迫した声。
ファニーは自身の肩にしがみついた精霊に手を当てて夫を見つめた。
「出来なくてもいい!誰も責めやしない!ただ走りながら願うんだ!俺には分からんが、力があるなら応えてくれるはずだ!」
――名前を呼んでも、あの日以来一度も応えてくれないのに!
そう叫びたくなるファニーだったが、先を行く夫の奥で燃え広がる炎を視界に収めた。
――あんなに綺麗だった町が…。私があそこに着いたとして、何の役に立つっていうの?
その考えに思い至り、彼女は覚悟を決めた。
――テティス。お願い。あなたに力があるなら、その力を今だけ貸してっ!
都合のいい考えだったろう。ただ精霊の契約者は神への祈りのように純粋にそれだけを強く願っていた。
―――水の都に伝わる詩がある。
海の女神の名を詠む詩が。
子供たちに聞かせる神の名の後半にその名はあった。
テティス。それは海の女神の一柱。
ファニーの肩の獺が蒼い輝きを放った。
輝きはやがて訪れた頃の町並みのような瑠璃色となり、空へと放たれる。
――ポツリ。
「――?上から?」
駆けながらピエールが空を見上げる。
「――雨ね。ありがとうファニー、助かったわ…」
セレナが後ろを振り向いた瞬間、時間が凍り始めた。
時が止まりきる前に彼女は悟った。
――ソファ、その力は…
――――――――――――――――――
ソファと別れた後、ノエルとトラヴァスが町へ襲い掛かる火竜の群れに向け次々と雷の槍を放っていた。
「どっから湧いてきたのよ!」
「知らんがな!」
「数は?」
「こないだのワイバーンよりは多いんちゃうかぁ?」
「全部火竜?」
「格でゆうたら、中の下やけどなぁ。ただ数がえげつないでぇ」
「間に合う?」
「半分は覚悟せなあかんのちゃうか?」
軽口を叩き合っているようでも攻撃の手は激しさを増していた。火竜の一団を貫いていた槍は大きさを変えて無数の雷矢となり、狙いはつけず、群れに向けて無数に放たれていた。――誰かが射線に巻き込まれないことを祈りながら。
「キリがないわ!トラヴァス!纏うわよ!」
「…ええんか?」
「早く!!」
何かを覚悟した2人の間で時間が凍る。
止まった時間の中でノエルの思考だけは一つの可能性に辿り着いた。
――あのバカ!
◇◇◇◇
――書き入れ時だ。
ラグーナ公国の水の広場“水鏡の浮市”は昼と夜の境目がいちばん賑わう。
噴水の水龍が朱を帯び始める頃、町中の露店舟が自然と寄り集まり、客引きの呼び声が水面を揺らす。
焼けた油の匂い、煮込みの湯気、果実酒の甘さが入り混じり、広場全体がひとつの大きな食卓になり観光客はその活気に中てられ我も我もと商品を求める。
船頭は舟を噴水の縁に寄せ、客に品を渡しながら水面の様子を見ていた。
この時間帯は流れが緩む。
小舟同士が触れ合わぬよう、櫂の角度と力加減に気を配る必要がある。
水は嘘をつかない。
揺れ方を見ていれば次に何が起きるかは長年の勘で大体分かる。
――その水が、妙にやかましい。
風は吹いている。呼び声もある。
いつも通りの周囲の喧騒。
夕焼けの空が雲の形まで綺麗に水に映…?
舟でも、人でもない。
広場を覆うには大きく雲にしては低い。
反対側から迫る影に船頭は気付き反射的に視線を上げた。
――空を覆う無数の影。
翼を広げた異形のもの。数を数える前に、それが無駄だと分かるほどの群れだった。
まだ遠いはずの空から、火の柱が落ちる。
町の外縁、屋根の向こう側で炎が跳ね上がった。
異変に気付いた広場がざわめき、
異常に気付いた舟が一斉に動き出すと櫂がぶつかる音が増える。
客を降ろす者、縄を切る者、受け取った商品を落とす者。
広場は一瞬で秩序を失った。
船頭は舟を岸に寄せながら、声を張り上げた。
落ち着いて夕陽に向かえ――。
火の手はまだ遠いが、空の影は増え町の向こう側に上がる火柱が少しずつこちらへ向かってきている。
その時、肌に当たる水の粒。
最初は一粒。次に二粒。
水面にも、混乱のものとは違う水の波紋。
――雨?
櫂を差し込んだまま、船頭は動けずにいた。
――否。
櫂が抜けないのだ。
火は見える。
だが、燃えていない。
熱を感じなかった。
空を見上げていた群衆の空気が変わり船頭は無意識に空を見上げた。
空を覆っていた異形のものの中心から氷晶華が咲く。
夕焼けの朱を背景に白銀の輝きが放射状に広がる美しさに目を奪われた。
一際大きな氷晶華が咲き、それが砕け散った時、音が戻った。
遠くで何かが崩れる音、誰かの泣き声。
船頭は息を吐き、凍った水面を叩くと薄氷が割れ下から水が顔を出す。
火の手は、ここまで来ていない。
見上げた空には――影がなかった。
◇◇◇◇
「浮市に行くときは
呼んだらすぐに帰る!
いつも言ってるでしょ?」
露店舟が広場に集まる時間帯は戦場だ。
出遅れれば良い品はすぐに消える。
エリーはそれを知っていた。
「ママ痛いよ」
「ママ早い~」
右手にパブロ、左手にペドロ。
家を出るのが遅れた原因となった息子たちの手を引き、歩きながら何度も叱りつける。
強引だと分かっていても、息子たちの手を強く握り歩みを早める。
竜車や馬車の洗い手として生計を立てているエリーには今日の人出が予想できた。
だからこそ子供たちの迎えが遅れたのだが――。
ふと何かが、頭上を遮ったような影。
「……?」
エリーは足を止めかけすぐに思い直す。
混雑のせいだ。人の影だ。
そう言い聞かせ子供たちの手を引いた次の瞬間、背後から轟音が落ちてきた。
低く重く、腹の奥に響く音。それが空から。
誰かが叫んだ。
前方では人の流れが詰まり、エリーは反射的に子供たちを引き寄せて肩で庇った。
「離れないで!」
――熱。
目の前で赤い光が跳ね咄嗟にエリーは顔を上げた。
そこには数え切れない影があった。
炎を引く影が群れとなって旋回している。
「竜だ!」
「ママ竜だよ」
建物の屋根が赤く染まると炎が立ち上り、あっという間に隣の建物へと燃え移る
――来ないで…!
声にならない声が、喉で潰れる。
人が押し寄せ、押し返し、悲鳴が連なって波になる。
エリーは走った。
行き先も分からずただ火のない方へ。
子供たちの手をより強く握りしめて。
頭上から火の粉が降る。
熱風が背中を叩く。
パブロがつまずき体が前に倒れかけるとすぐに抱きかかえた。
「大丈夫!」
――離さない。絶対に。
ぽつり、と。
頬に冷たいものが触れた。
雨?
降り出した雨は炎の熱を切り裂くように強まった。
蒸気が立ち、視界が白く霞む。
だがそれは普通の雨ではなかった。
水たまりは飛沫を上げず、
水路の水面がさざ波の途中で止まる。
――凍っている?
「……ママ寒い」
ペドロの声が震えた。
エリーは子供たちを抱き寄せる。
息が白い。
火は燃えているはずなのに、熱が届かない。
頭上で何かが砕ける音がした。
見上げる勇気はなかった。
ただ白い光が降り、やがて音が消えると時間が戻ったように熱を感じた。
炎はもう広がっていなかった。
影は消え、空に残るのは雲だけ。
エリーはその場に座り込んだ。
子供たちを抱き寄せたまま、まだ離せない。
「……生きてる?」
パブロがそう言った。
エリーは、うなずくことしか出来なかった。




