第98話「置き換えられる名」
十二度目の鐘が、扉の向こうで長く尾を引いた。
『レティシア・フォン・アルヴェール』
銀色に浮かび上がった文字は、見間違えようもなくレオの本名だった。
「どうして、ここが私の名前を知ってるの」
レオが扉へ手を伸ばす。
その手首を、リオンが掴んだ。
「触らないで」
「さっきは開けろって言ったのに?」
「状況が変わったから」
いつもの軽い笑みはない。
リオンは扉に残された、削り取られた跡を指でなぞらずに見つめた。
新しく浮かんだレティシアの名は、古い傷の上へ重なるように刻まれている。
「これは君の名前を知っていたんじゃない」
「じゃあ、何?」
「空いた場所に、君の名前を入れた」
その言葉と同時に、扉の表面が波打った。
削り取られた跡の奥から、黒い文字が滲み出す。
『名を置き、役目を継げ』
レオは眉を寄せた。
「役目?」
『記録を守れ』
『名を捨てよ』
『外へ戻る者の記録を閉ざせ』
複数の声が扉の向こうから響いた。
先ほど崩れた本の番人と同じ、重なり合う声だった。
リオンが小さく息を吐く。
「なるほど。番人に名前がなかったんじゃない」
「名前を取られた?」
「たぶんね。ここへ来た誰かが、扉に名を置いて番人になった。次の人間が現れるまで、ずっと」
レオは扉に刻まれた自分の名を見る。
「つまり、私を次の番人にするつもり?」
『名を置け』
銀色の文字が強く光った。
同時に、レオの胸の奥が焼けるように熱を持った。
自分の内側から、何かを無理やり引きずり出されるような感覚に、レオは反射的に胸元を押さえた。
扉の上では、すでに変化が始まっていた。
レティシアの名の下に、細い線が刻まれた。
その直後、もう一つの名が浮かび上がる。
『レオ』
二つの名前が上下に並ぶ。
『一つを残せ』
「またそれ?」
レオの声が低くなった。
『真なる名を残せ』
『偽りの名を捨てよ』
「レオは偽名だけど、偽りじゃない」
扉は答えない。
代わりに、レオの文字が薄れ始めた。
「勝手に消さないで!」
レオが銀の鍵を扉へ突き立てようとする。
リオンが手首を掴んだまま、その動きを止めた。
「待って。怒るのはいいけど、相手の望む場所へ鍵を入れないで」
「じゃあ、どうするの?」
「扉は一つを選ばせたい。選ばなければ開かない」
「だったら壊す」
「それも君らしいけど、鍵がある意味を考えよう」
リオンが扉ではなく、レオの手にある銀の鍵を見る。
その柄に、先ほどまではなかった二本の細い線が浮かび上がっていた。
リオンが鍵を持つレオの指を軽く動かす。
「鍵穴は一つ。でも、線は二つ」
「二つの名に、この線を合わせろってこと?」
「それを決めるのは君だよ」
レオは一度、目を閉じた。
完璧な公爵令嬢として振る舞うレティシア。
気楽に笑い、面倒ごとへ首を突っ込むレオ。
どちらかが本物で、どちらかが偽物なのではない。
どちらも、自分が選んだ自分だ。
レオは目を開けた。
「選ばない」
『一つを残せ』
「断る。レティシアもレオも、両方私よ」
銀の鍵を横向きにし、二本の線を扉の二つの名へ重ねる。
「誰かに片方を消されるくらいなら、この扉ごと壊す」
「やっぱり最後はそこへ戻るんだね」
リオンが楽しそうに笑った。
「手伝う?」
「壊す方を?」
「君が選んだ方を」
レオは銀の鍵を二つの名の間へ押し当てた。
鍵の先が触れた瞬間、石の表面が水のように沈んだ。
鍵穴ではない。
それでも鍵は、拒まれることなく扉の中へ入っていった。
鋭い亀裂が走る。
扉の向こうから、無数の悲鳴が響いた。
『選べ』
『名を置け』
『番人となれ』
「嫌よ!」
鍵を捻る。
二つの名前が同時に輝き、扉の中央から左右へ分かれた。
重い音を立てて、石の扉が開いていく。
その先には、円形の部屋があった。
壁一面に、人の名が刻まれている。
そのほとんどが途中で削られ、読めなくなっていた。
そして部屋の中央。
鎖で閉じられた一冊の白い本に、見覚えのある家紋が刻まれている。
アルヴェール公爵家の紋章だった。




