第99話「名もなき本」
円形の部屋の壁には、床から天井近くまでびっしりと人名が刻まれていた。
だが、どの名も刃物で何度も削られている。
深い溝だけが残ったもの。
姓の一部だけが読めるもの。
最初の一文字だけが、かろうじて形を保っているもの。
部屋の中央には、腰ほどの高さの黒い石台があった。
その上に、一冊の白い本が置かれている。
白い革表紙の中央には、盾を囲むように二本の枝葉が彫られていた。
アルヴェール公爵家の紋章。
見慣れた意匠を見つけた瞬間、レオの足が止まる。
「どうして、うちの紋章が」
白い本には、四本の黒い鎖が巻きついていた。
一本は本の上から石台の正面へ。
二本は左右の床へ。
残る一本は本の背から壁へ伸び、削られた名前の間へ入り込んでいる。
じゃらり、と鎖が動いた。
『名を置け』
低い男の声、かすれた女の声、子どもの声。
年齢も性別も違う声が、部屋の四方から同時に響いた。
『役目を継げ』
『記録を閉ざせ』
「まだ言うの?」
レオの右のこめかみがぴくりと動く。
「一つ選べ、名前を捨てろ、番人になれ。さっきから勝手なことばかり」
レオが石台へ向けて一歩踏み出した。
その前へ、リオンの腕が伸びる。
レオを押し戻すのではなく、リオンは床に落ちていた親指ほどの小石を拾った。
それを石台まで続くまっすぐな床へ放る。
小石が床に当たった。
カン、と乾いた音がした直後、右壁の隙間から細い鎖が飛び出した。
鎖の先端についた三角形の金具が小石を直撃する。
小石は白い粉となって弾け、床の上へ散った。
「中央へまっすぐ進むと、ああなる」
「先に説明したね」
「学習したからね」
リオンは小石の粉から視線を上げ、部屋全体をゆっくり見渡した。
石台を中心に、床には四重の円が彫られている。
円と円の間には、細い溝が何本も走っていた。
本の正面へ伸びる一本と、左右へ伸びる二本は、床の鉄具へ固定されている。
だが、壁へ伸びる一本だけは、途中でいくつもの人名の上を横切っていた。
「鎖は本を守ってるんじゃない」
リオンが、壁へ伸びる一本を指す。
「名前を繋ぎ止めてる?」
「たぶんね。君が正面の留め具へ鍵を使えば、四本とも一緒に外れる。この鎖に触れている名前まで巻き込まれるよ」
レオは腰の革袋から取り出しかけていた銀の鍵を、いったん戻した。
「危なかった」
「本当にね」
「もう少し早く言って」
「説明を待たずに鍵を出すからだよ」
石台の上で、白い本が一度跳ねた。
表紙を締めつける鎖が、ぎり、と革へ食い込む。
その隙間から、息のような細い声が漏れた。
『たすけて』
今まで部屋中から響いていた声とは違う。
白い本の中から、たった一人が喉を震わせているような声だった。
レオの眉間から力が抜けた。
「中に誰かいる」
「本に残された誰かの意思かもしれないね」
リオンは石台から二歩離れた場所で片膝をついた。
床の溝へ指先を入れ、円をなぞる。
最も外側の円から、四本の細い線が石台へ向かっていた。
床へ伸びる三本の先には、それぞれ四角い鉄の留め具が埋め込まれている。
「三つの留め具は、床の下で同じ仕掛けに繋がってる」
リオンは壁へ向かう一本を目で追った。
「壁へ伸びた一本だけは別だ。あの名前を通って、本へ戻ってる」
「それを外せば?」
「少なくとも、壁の名前を巻き込まずに済む。ただし、三本の留め具を一度に外すと、石台ごと床が落ちる」
レオは足元を見た。
石台の周囲だけ、床石の継ぎ目が正方形になっている。
四隅には、指一本分ほどの隙間があった。
「正しい順番は?」
「今から作る」
「見つけるじゃなくて?」
リオンが立ち上がり、剣の柄へ手を置いた。
「仕掛けが決めた正解を探すより、君が壊しても床が落ちないように支えを作る方が早い」
レオの口元が上がる。
「話が分かるじゃない」
リオンは壁際へ移動した。
鎖が触れている名前を、左から一つずつ確認していく。
完全に削られ、穴のようになった名。
三文字だけ残った名。
一文字目だけが浅く刻まれている名。
最後に、他より傷の浅い文字の前で止まる。
名前の半分が残り、その上を一本の鎖が斜めに横切っていた。
「ここだ」
リオンが文字の溝へ指を当てる。
「他の名前より削られた跡が新しい。最後に番人へされた者の名だと思う」
「まだ戻れる?」
「この鎖を外して、本の中に残っているものが消えなければね」
「それ、結局は私次第ってこと?」
「そうとも言うね」
「便利な言葉だよね」
レオは石台へ向き直った。
白い本の表紙が、鎖の内側でかすかに上下している。
『名が、ない』
「あるよ」
レオは間を置かずに答えた。
白い本の震えが止まる。
『わからない』
「じゃあ、思い出すまで仮の名前を使えばいい」
リオンが壁際から振り返った。
「ずいぶん軽いね」
「重く考えたって、名前が勝手に戻ってくるわけじゃないでしょ」
レオは小石が砕かれた場所を避け、床の円の外側を回った。
鎖が飛び出した右壁には近づかず、石台の左側へ回り込む。
そこには鎖の届かない、半歩分の隙間があった。
レオは石台の横へしゃがみ、白い本と目線の高さを合わせる。
人へ向けるように、表紙へ片手を差し出した。
「俺はレオ。そっちは?」
『ない』
「じゃあ、白でいい?」
『しろ』
白い本の表紙が、ほんの少し持ち上がった。
「気に入らなかったら、後で好きな名前に変えればいい。まず、ここから出る?」
数秒後、表紙の下から白い紙の端が一枚だけのぞく。
『でたい』
レオは差し出していた手を握り、立ち上がった。
「交渉成立」
その瞬間、壁に刻まれたすべての文字が赤く染まった。
『名を与えるな』
『記録を乱すな』
『役目を変えるな』
三本の鎖が、床の留め具から一斉に浮き上がった。




