第100話「役目を失わせる者」
三本の鎖が、蛇のように石台の周囲で持ち上がった。
金属の先端が床を叩き、赤い火花を散らす。
「うるさい!」
レオは腰の革袋から銀の鍵を取り出し、足元の円と円が交差する溝へ突き立てた。
鍵の先端が石の中へ半分ほど沈む。
「名を奪う仕掛けの言うことなんて、誰が聞くか!」
一本の鎖が、石台の右側からレオへ向かって伸びた。
「レオ、左へ二歩」
リオンはすでに動いていた。
石台の右側へ走り、床から持ち上がった一本目の鎖の下へ剣を差し込む。
そのまま剣を横へ倒し、鎖の先端をレオの方角から逸らした。
レオが左へ跳ぶ。
一歩。
二歩。
直後、二本目の鎖がレオのいた場所を横薙ぎに走った。
そこへリオンが向きを変えた一本目がぶつかり、二本の鎖が空中で絡み合う。
金属同士が擦れ、火花が散った。
「今!」
レオは床の留め具ではなく、二本の鎖が絡んだ中央へ銀の鍵を押し当てた。
鍵の先が、鎖の隙間へ吸い込まれるように沈む。
カチリ。
小さな音がした。
絡み合っていた二本の鎖が、途中から白い糸のようにほどけていく。
ほどけた光が床の上へ散り、やがて消えた。
「本当に壊して平気なの?」
レオが鍵を握ったまま聞く。
「今さら聞くんだ?」
リオンは剣で残った一本を床へ押さえながら答えた。
「壁へ伸びた鎖はまだ残してある。名前は消えない」
「なら遠慮しない」
残った一本が剣の下から抜け、石台の上へ跳ねた。
白い本を強く締めつけ、表紙を中央から内側へ歪ませる。
『やめろ』
『役目が失われる』
「失わせる!」
レオは石台の脇へ踏み込んだ。
残った鎖が白い本を持ち上げ、壁へ叩きつけようとする。
リオンが鎖を靴底で床へ押さえ込んだ。
鎖が暴れ、石床を何度も叩く。
一度。
二度。
三度目に跳ねた先端が、リオンの足首へ巻きつこうとする。
リオンは足を引くのではなく、剣の鍔を鎖の輪へ差し込んだ。
輪が剣へ食い込み、動きを止める。
「右へ捻って!」
「どのくらい?」
「止まるまで」
「説明が雑!」
レオは銀の鍵を両手で掴み、右へ回した。
最初はびくともしない。
レオが歯を食いしばり、さらに体重をかける。
固い手応えの後、鍵が一気に半回転した。
甲高い音が円形の部屋を貫く。
床の留め具が三つ同時に外れた。
石台が大きく揺れる。
だが、床は落ちなかった。
リオンがあらかじめ石台の左右の隙間へ差し込んでいた二本の投擲短剣が、床石の縁と土台の間へ食い込み、落下を止めている。
「そんなもの、いつ入れたの?」
「君が白と話してる間」
「抜け目ないね」
「褒め言葉として受け取るよ」
残った鎖が、端から白い糸のようにほどけていく。
ほどけた光が石台の周囲へ散り、やがて消えた。
白い本の表紙が勢いよく開く。
頁が風もないのに何枚もめくれ、中央の真っ白な頁で止まった。
白い紙の上へ、黒い線が一本ずつ走っていく。
『白』
たった一文字が、頁の中央に現れた。
白い本が小さく震える。
今度は鎖に締めつけられた震えではない。
表紙の両端が、呼吸するようにゆっくり上下している。
「白」
レオが呼ぶ。
開いた頁の文字が、一度だけ淡く光った。
その直後、壁に刻まれた名前の溝へ青白い光が流れ込んだ。
消えていた線が繋がっていく。
欠けていた文字が一画ずつ戻る。
姓だけだった名に、失われていた文字が加わる。
最初の一文字だけだった名が、横へ長く伸びていく。
円形の部屋を取り囲むように、無数の名前が青白く光り始めた。
赤く染まっていた床の円が、一つずつ消えていく。
最後の赤い線が消えたところで、レオは肩を落とした。
長く息を吐く。
「終わった?」
リオンは剣を下ろし、石台の周囲を一周見回した。
床の留め具。
壁の名前。
開いた白い本。
「今のところは」
「じゃあ休憩」
レオは返事を待たず、その場へ腰を下ろした。
背中を丸い石壁へ預け、両脚を前へ投げ出す。
銀の鍵を握った右手も、床の上へだらりと落ちた。
「ここで?」
「頑張ったから、もう動きたくない」
「まだ地下だけど」
「壁はあるし、床も平ら。五分だけ」
リオンはレオの横にある床を靴の先で軽く叩いた。
「崩れない?」
「今、それを聞く?」
「座ってから崩れたら面白いかなと思って」
「面白くない」
開いた白い本が石台から滑り落ちた。
床へ落ちる直前にふわりと浮き、そのままレオの膝の上へ収まる。
レオは落とさないよう反射的に両手で受け止めた。
リオンは剣を鞘へ戻しながら笑った。
「ずいぶん懐かれたね」
「人聞きが悪い。助けただけ」
レオが白い本の表紙を指先で軽く叩く。
「白も休む?」
頁の中央に、小さな文字が浮かんだ。
『やすむ』
「話が分かるじゃない」
レオは再び石壁へ背中を預けた。
目を閉じようとした、その時だった。
膝の上で頁が一枚めくれる。
新しい頁の上へ、いくつもの黒い染みが浮かんだ。
染みはゆっくりと細い線へ変わり、一文字ずつ文章を作っていく。
『アルヴェール家が、私の名を消した』
レオの背中が壁から離れた。
床へ投げ出していた両脚を引き、白い本を両手で持ち上げる。
「……何?」
リオンの笑みも消える。
彼は白い本の頁を覗き込まず、最初に壁へ刻まれた名前とアルヴェール家の紋章を見比べた。
「白」
リオンが低い声で呼びかける。
「アルヴェール家の誰が、いつ君の名前を消した?」
白い本の頁が震えた。
だが、すぐには文字が現れない。
レオの休憩は、五秒で終わった。




