第101話「消された記憶」
レオはずり落ちかけた白を膝の中央へ戻し、浮かんだ文章をもう一度読む。
『アルヴェール家が、私の名を消した』
「誰がやったの?」
返事はない。
頁の端が持ち上がり、すぐに落ちる。
リオンは石台の正面へ回り、表紙に刻まれた紋章を指先でなぞった。
「白。分からないことは、分からないでいい。覚えているところだけ教えて」
『わからない』
「名前を消した瞬間は見た?」
『みた』
「顔は?」
黒い染みが頁に浮かぶ。
だが、文字になる前に滲み、紙の中へ吸い込まれた。
『ない』
レオが眉を寄せる。
「顔がなかった?」
『顔を、思い出せない』
白い本が激しく震えた。
レオは表紙の両端を両手で押さえる。
「無理に思い出さなくていい」
『でも』
「でもじゃない。壊れるまで話す必要はないでしょ」
レオは本を自分の膝へ引き寄せた。
「俺たちは、君を責めてない。うちの家を庇うために聞いてるわけでもない。何があったのか、順番に確認したいだけ」
白の震えが、少しずつ収まる。
リオンが壁へ刻まれた名前を見上げた。
「白が覚えているのは、アルヴェール家の紋章と、名前を消されたこと。この二つだけ?」
『鎖』
「鎖もアルヴェール家が使った?」
『ちがう』
レオとリオンが同時に白を見る。
頁に、新しい文字が浮かび始めた。
『鎖は、あとから』
「誰が?」
『番人』
「じゃあ、アルヴェール家が名前を消した後で、別の誰かが君をここへ縛った?」
『わからない』
リオンは顎へ指を添えた。
「少なくとも、名前を消した者と、番人にした者が同じとは限らないね」
「家の紋章があるのは?」
「白をここへ運んだ時につけられたか、最初から白がアルヴェール家の所有物だったか」
レオは白い表紙を見下ろす。
「白は、うちにいたの?」
頁の中央に、小さな黒い点が浮かぶ。
点は線になり、短い言葉を作った。
『いた』
「どこ?」
『窓』
『赤い屋根』
『白い花』
レオは目を瞬いた。
「白い花?」
『庭』
『女の子』
次の文字が現れた瞬間、白い本の頁が一気にめくれた。
風が円形の部屋を走る。
開いた頁の上に、淡い映像が浮かび上がった。
陽の光が差し込む小さな書斎。
窓の外には赤い屋根。
白い花が咲く庭。
机の前に、銀灰色の髪をした少女が座っている。
顔は光に隠れて見えない。
少女の背後に、黒い人影が立った。
顔も服装も闇に溶け、黒い手袋をはめた片手だけが見える。
その手が細い刃を頁へ押し当てた。
文字が一行ずつ削られていく。
映像が途切れた。
白い本が閉じかけ、レオが慌てて表紙を支える。
「今の女の子は誰?」
『しらない』
「銀灰色の髪だった」
リオンが壁から視線を戻す。
「アルヴェール家に多い色?」
「うちでは珍しくない。でも、あの書斎は知らない」
レオは映像に映った窓と庭を思い返す。
赤い屋根。
白い花。
小さな書斎。
「本邸じゃない」
「別邸?」
「たぶん。でも、うちの領地には古い屋敷がいくつもある」
リオンは白の表紙に刻まれた紋章へ顔を近づけた。
中央の盾と、その左右を囲む二本の枝葉。
形そのものは、現在のアルヴェール公爵家の紋章と同じだった。
「紋章は今のものと一致してるね」
レオも白い表紙を覗き込む。
「じゃあ、やっぱりうちの本?」
「それはまだ分からない」
リオンが枝葉の輪郭を指先でなぞる。
葉の縁は一枚ずつ深く彫られ、盾の内側には細かな傷が幾重にも残っている。
「王宮へ届くアルヴェール家の文書に押されている印章より、彫り方が古い。少なくとも最近つけられたものじゃない」
「昔のアルヴェール家の所有物だった可能性はある?」
「ある。でも、古い型を知っている者なら複製もできる」
レオの目が細くなった。
「じゃあ、家の誰かがやったとは限らない」
「でも、無関係とも言い切れない」
「分かってる」
レオは白を抱え直し、立ち上がった。
さっきまで動きたくないと言っていた人物とは思えない速さだった。
リオンが口元を緩める。
「休憩は?」
「うちの紋章を使って白の名前を消した奴がいるなら、休んでる場合じゃない」
「頑張った反動は?」
「後でまとめて来る」
「それは大変そうだね」
「双子が何とかする」
迷いなく言い切った直後、壁の一部から石の擦れる音が響いた。
削られていた名前の列が左右へ分かれ、細い通路が現れる。
通路の奥には、白い花を刻んだ扉があった。
白の頁に、一文字だけ浮かぶ。
『家』
レオは深いため息をついた。
「休ませる気、全然ないじゃない」




