第97話「名を持たぬ番人」
十一度目の鐘の余韻に重なるように、暗闇の奥から音が近づいてくる。
ずるり。
ずるり。
何かが石段を引きずられながら、ゆっくり上っていた。
「下がって」
リオンがレオの前へ半歩出る。
「今度は先に説明してくれる?」
「まだ見えてないから、説明できない」
「じゃあ、何で前に出るの」
「君が先に覗き込みそうだから」
伸ばしかけていたレオの首が止まった。
「……よく分かったね」
「分かりやすいよ」
「腹立つ」
暗闇の中で、二つの青白い光が灯った。
目ではない。
鎖に吊られた、小さな金属板だった。
やがて姿を現したのは、人の形に積み上げられた無数の本だった。
頭部には題名のない黒い表紙。
胴には大小さまざまな革表紙。
腕の代わりに長い鎖が垂れ、石段を擦っている。
顔はない。
名もない。
『名を持つ者は、去れ』
何冊もの本が同時に開き、重なった声を発した。
「俺たち、どちらも名前はあるけど」
リオンが軽く答える。
『偽りの名を持つ者。隠された名を持つ者。奪われた名を持つ者』
本の番人が一段上る。
『いずれかのみ、先へ進める』
レオは眉を寄せた。
「私は、名前を隠してるから?」
『二つの名を持ち、どちらにも定まらぬ者』
「定まってないんじゃなくて、両方私だって言ったでしょ」
番人は答えない。
代わりに、鎖の一本が床を打った。
鋭い音とともに、石段へ亀裂が走る。
レオが銀の鍵を構えるより先に、リオンがその肩を引いた。
鎖が二人の間を薙ぎ払う。
「話し合いは無理そうだね」
「嬉しそうに言わないで」
「大丈夫。動きは単純だから」
番人の二本目の鎖が持ち上がる。
リオンはその動きを見ながら、足元へ視線を落とした。
左の壁には浅い傷。
右の床には鎖が何度も擦れた跡。
番人の右脚を形作る本だけ、他より新しい。
「レオ、三歩後ろへ」
「理由は?」
「今度は聞くんだ?」
「聞かないと怒るでしょ」
「怒らないよ。三歩だけ」
レオは疑いながらも後ろへ下がる。
一歩。
二歩。
三歩。
その瞬間、番人が右脚を踏み出した。
新しい革表紙が石段から滑り、身体全体が右へ傾く。
振り下ろされた鎖が左壁へ食い込み、抜けなくなった。
「最初から分かってたの?」
「右脚だけ傷が少なかった。交換されたばかりなら、まだ馴染んでない」
リオンは番人の脇を抜け、鎖が巻きついた壁へ手を伸ばした。
「それから、この傷」
壁には鎖で隠されていた細い溝がある。
その中心に、小さな窪みがあった。
「鍵穴」
レオも駆け寄る。
「私を三歩下げたのは?」
「番人に右脚を出させるため。君が近くにいたら、左の鎖を使ったから」
「私を餌にした?」
「安全な位置へ置いた囮かな」
「同じでしょ!」
「違うよ。危なかったら囮にはしない」
悪びれずに言い切るリオンへ、レオは文句を飲み込んだ。
実際、鎖は一度もレオへ届いていない。
「鍵、貸して」
「何をする気?」
「番人が隠してた道を開ける」
レオは銀の鍵を渡しかけ、止まった。
「待って。リオンはどうして、ここを開けたいの?」
「君が開けたいから」
「私、そんなこと言ってない」
「でも、閉じたまま帰る気もないでしょ?」
図星を突かれ、レオは黙った。
リオンが笑う。
「ほら、自分で決めた」
「今、誘導した?」
「何のことかな」
レオはじろりと睨みながら、銀の鍵を窪みへ差し込んだ。
カチリ。
壁の奥で、重い仕掛けが動く。
番人の身体を形作っていた本が一斉に震え、鎖がほどけていく。
その向こうから現れたのは、さらに地下へ続く扉だった。
扉の中央には、削り取られた人名の跡がある。
だが、その下に新しい文字が浮かび始めた。
『レティシア・フォン・アルヴェール』
レオの顔から血の気が引く。
「何で私の名前が?」
リオンの笑みも消えた。
扉の向こうで、十二度目の鐘が鳴った。




