第96話「崩れる書庫」
十度目の鐘が鳴り終わるより早く、黒い本の表紙がひとりでに開いた。
ばさり。
乾いた紙の音とともに、白紙だったページから銀色の文字が溢れ出す。
人の名。
家の名。
すでに地図から失われた土地の名。
無数の文字が蛍のように宙へ舞い、地下書庫を埋め尽くしていく。
「綺麗だね」
リオンが手を伸ばしかける。
「だから触らないで!」
レオがその腕を掴んだ。
「文字にも?」
「ここでは何でも疑うことにしたの」
「いい判断だと思うよ」
「誰のせいで身についたと思ってるの?」
リオンが笑った、その瞬間。
レオの持つ銀の鍵が強く震えた。
宙を漂っていた文字が一斉に止まる。
次いで、銀の鍵へ向きを変えた。
「来るよ」
リオンの声から、笑みが消えた。
文字の群れが鋭い光となって飛来する。
リオンはレオの腰を抱き寄せ、書架の陰へ飛び込んだ。
光が二人のいた場所を貫き、石床へ深い亀裂を刻む。
「先に言って!」
「言う前に動いた方が早かったから」
「だからって腰を掴む必要あった?」
「確実だったでしょ?」
言い返そうとしたレオの足元で、石床が低く唸った。
エルマーが即座に叫ぶ。
「全員、書架から離れろ!」
しかし、すでに遅かった。
左右の書架が音を立てて動き始める。
棚が回転し、通路を塞ぎ、別の場所に新たな道を作る。地下書庫そのものが巨大な迷路へ姿を変えていく。
「侵入者を排除する仕掛けか」
カイゼルが剣を抜いた。
「鍵に反応しました!」
オスカーが飛来する文字を剣で弾く。
砕けた光が床へ落ち、黒い染みとなって消えた。
仮面の男だけが、動く書架の間に静かに立っている。
「説明して!」
レオが叫ぶ。
「書庫は、記録を奪われると判断したのでしょう」
「鍵を差し込ませたのはそっちでしょ!」
「知るためには、開く必要があります」
「毎回答えが腹立つ!」
そのとき、リオンが天井を見上げた。
ぱらり、と細かな砂が落ちる。
右側の書架が、わずかに傾いていた。
「レオ。右と左なら、どっちが好き?」
「今それ聞く?」
「直感で」
「右!」
「じゃあ左へ行こう」
リオンがレオの手を引いた。
「何で聞いたの!」
二人が左へ飛び込んだ直後、右側の床が崩れ落ちた。
巨大な書架が傾き、カイゼルたちとの間へ倒れ込む。
轟音。
舞い上がる埃。
視界が一瞬で灰色に染まった。
「レオ!」
オスカーの声が聞こえる。
「無事!」
レオが返す。
しかし、倒れた書架と崩れた床が完全に通路を塞いでいた。
「戻れないね」
リオンが楽しそうに言う。
「何で嬉しそうなの?」
「予定通りじゃないから」
「書架が倒れるのは読んでたんでしょ?」
「右側が崩れるところまではね」
「じゃあ、わざと私をこっちへ連れてきたの?」
「君を安全な方へ誘導しただけだよ」
「それを最初に説明して」
「説明したら、立ち止まって聞くでしょ?」
否定できず、レオは口を閉じた。
書架の向こうから、光を弾く剣戟に混じってオスカーの声が飛ぶ。
「リオン殿下まで巻き込まれた!」
「違う!」
エルマーの低い声が、轟音の向こうから返った。
「あの方は、自分からレオと同じ側へ入った」
レオは隣のリオンを見る。
本人は何事もなかったように、崩れた通路の奥を眺めていた。
「この先に出口があるの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「でも、戻るよりは早い」
リオンが暗い通路を指す。
そこには、先ほどまでなかった石階段が地下深くへ続いていた。
銀の鍵が、その階段へ向かって震えている。
「嫌な予感しかしない」
「大丈夫。危なくなったら避ければいいよ」
「その考え方、絶対におかしいから」
二人が階段へ近づいた瞬間、壁に刻まれた文字が青白く光った。
『名を持たぬ者だけが、先へ進める』
レオとリオンは同時に足を止める。
「レオ」
「何?」
「君、また何か引き寄せた?」
「私のせいにしないで」
階段の奥から、何かを引きずる音が響いた。
ずるり。
ずるり。
リオンの笑みが、ゆっくり深くなる。
「やっぱり、君といると面白いね」
「私は全然面白くない!」
暗闇の奥で、十一度目の鐘が鳴った。




