第95話「名を持たぬ書」
九度目の鐘の音が、地下書庫の奥へ吸い込まれていく。
天井近くまで伸びた書架が、青白い炎の向こうに幾重にも並んでいた。
古びた革表紙の本。
紐で束ねられた巻物。
封蝋の施された木箱。
どれも長い間、人の手に触れられていないように見える。
「広いなあ」
リオンが楽しそうに一歩踏み出した。
「待って」
レオが外套を掴む。
「まだ何も触ってないよ」
「触る前に止めてるの」
「学習したね」
「誰のせいだと思ってるの?」
リオンが笑う横で、カイゼルが書庫の奥へ目を凝らした。
「人の気配はない。だが、書庫は死んでいない」
「この書庫そのものが動いているようですね」
オスカーが近くの書架を見上げる。
エルマーは床へ視線を落とした。
「何かを引きずった跡がある」
埃をかぶった石床に、細い線が続いている。
人の靴跡ではない。
何かを引きずったような跡が、書庫の中央から奥へ伸びていた。
「本が勝手に歩いたとか?」
リオンが言う。
「楽しそうに想像しないで」
「でも、ここならありそうじゃない?」
「否定できないのが嫌」
レオは銀の鍵を持ち上げた。
鍵先は左右へ揺れたあと、引きずった跡と同じ方向を示す。
「やっぱり奥か」
「俺が先に周囲を確認します」
オスカーが前へ出る。
「俺は最後尾だ」
エルマーが即座に告げた。
「さっきと同じ配置?」
「書架で視界が悪い。勝手に列を離れるな」
エルマーの視線が、レオとリオンの間で止まる。
「なんで俺たちを見るの?」
「心当たりがないのか?」
「リオンにはあると思う」
「レオにもあると思うなあ」
「二人ともある」
カイゼルの一言に、レオとリオンはそろって黙った。
書架の間を進むたび、青白い炎が順番に灯る。
まるで彼らを導いているようだった。
やがて、通路の中央に一冊の本が落ちているのが見えた。
黒い革表紙。
題名も紋章もない。
その本から伸びた細い鎖が、床の奥へ続いている。
「拾っていい?」
リオンが尋ねる。
「聞くようになっただけ成長しましたね」
「褒められた?」
「褒めていません」
オスカーがしゃがみ込み、本に触れない距離から観察する。
「鍵穴があります」
本の中央に、小さな銀色の穴が開いていた。
レオの手の中で、銀の鍵が震える。
「この鍵で開けろってこと?」
「鍵を持つ者の試練ですので」
仮面の男が答えた。
「今度は何を選ばせるの?」
「この書庫は、選ばせる場所ではありません」
「じゃあ?」
「知る場所です」
その言葉に、カイゼルの表情がわずかに険しくなった。
「何を知る?」
「残されたものを」
レオは本と、その先へ続く鎖を見比べる。
「開けたら、何が起きる?」
「それは本が決めます」
「本に意思があるみたいに言わないで」
その瞬間、黒い本がひとりでに震えた。
リオンの目が輝く。
「あるみたいだね」
「嬉しそうにしない」
レオがため息をつく。
オスカーは本の前に立ったまま、エルマーを見る。
視線だけが交わされる。
エルマーがわずかに頷くと、オスカーは半歩横へずれ、レオが近づくための場所を空けた。
「お嬢。無理だと思ったら、すぐ手を離して」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「失礼」
「その顔で言われても」
エルマーに言われ、レオは反論を諦めた。
銀の鍵を、黒い本の鍵穴へ差し込む。
カチリ。
乾いた音が響いた。
だが、本は開かない。
代わりに、床を這っていた鎖が動き出した。
ずるり。
書架の奥へ引かれていく。
「追うよ」
レオが立ち上がる。
「待て」
エルマーの制止より早く、黒い本が鎖に引かれて走り出した。
「あ、本当に本が歩いた」
リオンが楽しそうに後を追う。
「だから先に行かないで!」
レオも駆け出す。
「結局、二人とも行くんだね」
オスカーが苦笑しながら続く。
カイゼルは額へ手を当てた。
「エルマー」
「分かっています。回収します」
一行は書架の間を駆け抜ける。
黒い本は最奥の壁へ到達すると、突然止まった。
そこには、一冊分だけ空いた棚があった。
本がひとりでに収まる。
次の瞬間。
周囲の書架が一斉に音を立てた。
無数の本が震え、表紙へ銀色の文字が浮かび上がる。
人の名前。
家名。
失われた土地の名。
レオは息を呑んだ。
黒い本にだけ、名前は現れない。
代わりに浮かんだのは、短い一文だった。
『名を消された者の記録』
書庫の奥で、十度目の鐘が鳴った。




