第92話「二つの名」
六度目の鐘の余韻が、円形の部屋に長く残った。
四つの扉は閉じたまま。
青白い炎だけが、揺らめいている。
『真の名を』
低い声が、再び答えを求めた。
レオは銀の鍵を握ったまま、仮面の男を見る。
「答えなかったら?」
「扉は開きません」
「それだけ?」
「ここから先へ進めない。それだけです」
「戻る道も閉じてるのに?」
「はい」
「閉じ込める気でしょ」
レオが睨んでも、仮面の男は動じなかった。
「真の名を告げればよいのです」
「簡単に言うね」
リオンが一歩前へ出る。
「本人が言いたくないなら、別の扉を選べばいいんじゃない?」
「どの扉を選んでも、名は求められます」
「じゃあ、俺の名前で開けるとか」
「扉を選んだのは、あなたではありません」
「融通が利かないなあ」
軽い口調とは反対に、リオンの目は笑っていない。
オスカーはレオを庇ったまま、鐘を見上げた。
「名前を答えるだけで、本当に終わるの?」
「それを決めるのは、鐘です」
「また曖昧な答えだな」
エルマーの声が低くなる。
剣の柄に置かれた手は、そのままだ。
カイゼルは四つ目の扉を見つめた。
「名を告げることで、何を判断する?」
「その者が、自らを何者だと認めているか」
仮面の男の答えに、レオの指先がわずかに動いた。
「……何者か」
「偽りの名で生きる者は多い。立場に与えられた名。周囲が望む名。己を守るために選んだ名」
仮面の男が、初めてレオを正面から見た。
「どれが偽りで、どれが真実か。それを決めるのは、鐘ではありません」
「じゃあ、何のための試練なの?」
「選ぶためです」
レオは眉を寄せる。
「また選ぶの?」
「何を捨て、何を残すのかを」
部屋に沈黙が落ちた。
銀の鍵は、なおも四つ目の扉を指している。
何の紋様もない鐘。
壊れることも。
縛られることも。
逃げることも選ばず、まだ何も決められていない道。
「レオ」
オスカーが振り返る。
「言いたくないなら、言わなくていいよ」
「ここで止まることになるぞ」
エルマーが告げる。
「それでも構わない。無理に進む必要はない」
双子の言葉に、レオは目を瞬いた。
リオンも肩をすくめる。
「別の出口を探せばいい。なければ壁を壊そう」
「王子が遺跡を壊すと言わないで」
「じゃあ、こっそり壊す?」
「そういう問題じゃない」
思わず返すと、リオンが笑う。
ほんの少しだけ、張り詰めていた空気が緩んだ。
「君がどちらの名を選んでも、君自身が変わるわけではない」
カイゼルが静かに言った。
「選ばなくてもいい。だが、進みたいのなら、我々はその答えを否定しない」
レオは四人を順に見た。
赤ん坊の頃から、何度も無茶を止めてきた双子。
昔と変わらない距離で、遠慮なく隣へ入り込んでくるリオン。
すべてを知ったうえで、選択を委ねるカイゼル。
ため息が漏れた。
「そんな顔で見られたら、黙っていられないでしょ」
「どんな顔?」
リオンが尋ねる。
「面倒くさい顔」
「それ、レオにだけは言われたくないな」
レオはリオンを無視し、四つ目の扉へ向き直った。
銀の鍵を胸元まで持ち上げる。
「レティシア・フォン・アルヴェール」
青白い炎が大きく揺れた。
紋様のない鐘が、わずかに傾く。
だが、扉は開かない。
『それが、真の名か』
「……性格が悪いな」
レオは唇を引き結んだ。
レティシアは本名だ。
公爵令嬢として生まれ、家族に呼ばれてきた名。
けれど。
街を歩き、困っている者へ手を伸ばし、事件が終われば姿を消す男も、偽物ではない。
「レティシアは私」
レオは鍵を握り直した。
「でも、レオも私だ」
鍵から青白い光が溢れた。
「どちらかを捨てる気はない」
何の紋様もなかった鐘の表面へ、細い線が走る。
二つの円が重なり、一つの紋様を描いた。
ゴォン――。
七度目の鐘とともに、四つ目の扉がゆっくりと開いていく。
扉の向こうから、白い光が差し込んだ。
『名は、受け入れられた』
レオは目を細める。
「最初から、二つ答えろって言えばいいのに」
「それでは、選択になりません」
仮面の男はそう告げると、開いた扉の前で一礼した。
「第二の選択へ、ようこそ」
レオは深く息を吐く。
「まだあるの?」
答えるように、白い光の奥から新たな鐘が鳴った。




