第76話「鐘楼の番人」
暗闇の奥から、ゆっくりと足音が近づいてくる。
コツ……。
コツ……。
石畳を踏みしめる乾いた音だけが、円形の部屋へ響いた。
「来る」
オスカーが腰の剣へ手を添える。
エルマーも静かに身構えた。
セドラスは右手を軽く上げる。
「まだ抜くな」
足音は止まらない。
やがて暗闇の向こうから、一人の老人が姿を現した。
灰色の長い外套。
白髪を後ろで束ね、深い皺を刻みながらも背筋は真っ直ぐ伸びている。
その胸元には、小さな鐘を模した銀の徽章が輝いていた。
「……誰だ」
オスカーが低く問い掛ける。
老人は穏やかな目で四人を見渡した。
「その問いは、こちらが先だ」
静かな声だった。
「王国記録簿の前へ立つ資格を持つ者か」
部屋の空気が一瞬で張り詰める。
レティシアは老人から目を離せなかった。
初めて会うはずなのに、どこか懐かしい。
そんな感覚だけが胸に残る。
セドラスが一歩前へ出た。
「私はセドラス・ヴァレント。ヴァレント家の者だ」
「こちらはレティシア嬢。それから、私の弟たちだ」
老人は静かに頷く。
そして視線は自然とレティシアへ向いた。
「……そうか」
小さく息を吐く。
「来るべき者が来た」
「知ってるのか?」
オスカーが思わず聞き返す。
老人は答えず、石の台座へ歩み寄った。
王国記録簿へそっと手を添える。
「この帳簿は、王国最初の正式な記録」
「そして、ここには誰にも読まれてはならなかった真実が記されている」
セドラスが静かに問う。
「あなたは、この場所を守っているのですか」
老人はゆっくり頷いた。
「代々、この鐘楼を守る者」
「人は我らを『鐘楼の番人』と呼ぶ」
「名は歴史に残らず」
「ただ真実だけを守り続ける」
誰も言葉を発さない。
老人は帳簿を開いた。
古い羊皮紙が静かに音を立てる。
そこには数え切れないほどの名前。
王家。
貴族。
騎士。
証人。
そして。
途中から黒く塗り潰されたページが続いていた。
「……これが」
セドラスが息を呑む。
「消された歴史」
「そうだ」
老人は淡々と言う。
「王命により、記録は書き換えられた」
「存在した者は存在しなかったことに」
「交わされた約束は最初から無かったことに」
レティシアは帳簿を見つめたまま、小さく呟く。
「だから……名前だけが消されていた」
老人は静かに頷く。
「だが。」
一枚。
また一枚。
最後の数ページだけは黒く塗られていなかった。
「ここだけは守ることができた」
そこには一文だけ、美しい文字で記されていた。
『真実は鐘の下に眠る』
その瞬間だった。
胸の奥が強く疼く。
鐘楼。
石畳。
青い空。
笑い声。
『約束だよ』
幼い少女の声。
『鐘が三度鳴ったら、一緒に行こう』
「っ……!」
レティシアが頭を押さえる。
「お嬢!」
オスカーが慌てて支える。
エルマーもすぐ隣へ寄った。
「大丈夫か」
セドラスは老人を見る。
「記憶……ですか」
老人は驚きもせず、小さく頷いた。
「戻り始めている。」
「封じられていた記憶が。」
セドラスの表情が鋭くなる。
「なぜレティシア嬢だけが」
老人はレティシアを静かに見つめた。
「その答えは、まだ話せない」
「だが、一つだけ言える」
老人は部屋の奥へ視線を向ける。
「鐘楼の地下は終点ではない」
全員が振り返る。
そこには巨大な石扉があった。
今まで壁だと思っていた場所。
王家の紋章。
そして、その隣にはアウレリア家の紋章。
二つが並び刻まれている。
「まさか」
オスカーが息を呑む。
「まだ先があるのか」
老人は静かに微笑んだ。
「真実は、一つずつしか姿を見せない」
「急げば見失う」
「進めば辿り着く」
静かな言葉だった。
レティシアは石扉を見つめる。
胸の奥で、また少女の声が響く。
『もうすぐ』
『思い出せる』
その時。
ゴォン──
どこからともなく。
鐘の音が一度だけ、静かに地下へ響いた。




