第73話「地下に残された名」
落ちた先は、思っていたより深くなかった。
ただし、浅いから安全というわけでもない。
「……おい、エルマー」
「何だ」
「俺の上に乗るな」
「先に落ちたのはお前だ」
「落ちたんじゃない。導かれた」
「便利な言葉にするな」
双子の声が、地下の暗がりに響いた。
上からレティシアが覗き込む。
「生きてる?」
「お嬢、第一声がそれ?」
「確認は大事でしょう」
「できれば、もう少し心配してほしかった」
オスカーが呻くと、セドラスが横から冷たく言った。
「だから前へ出るなと言った」
「言われた気はする」
「聞いていなかったのだな」
「聞いてはいた。心が受け取らなかっただけで」
「悪質だな」
エルマーは短く息を吐き、周囲を見回した。
地下室は、古い石壁に囲まれていた。
湿った匂いはある。
けれど、水の音はしない。
長く閉ざされていた場所にしては、空気が腐りきっていない。
「通気がある」
エルマーが言った。
オスカーも腰を上げる。
「つまり、ここはただの落とし穴じゃない」
レティシアは上から短く指示を出した。
「動かないで。今、降りる」
「お嬢が降りるの?」
「私が見た方が早い」
「それ、だいたい面倒ごとの始まりなんだよな」
「もう始まってるわよ」
レティシアは上着の裾を押さえ、壁の出っ張りを使って地下へ降りた。
その身のこなしは、とても令嬢とは思えなかった。
セドラスも後に続く。
地下に降りると、壁際に細い棚があった。
その上に、朽ちかけた木箱が置かれている。
エルマーが手を伸ばそうとした瞬間、レティシアが制した。
「待って」
「罠か」
「たぶん、違う。でも触り方を間違えると崩れる」
レティシアは慎重に箱の蓋を持ち上げた。
中に入っていたのは、布に包まれた古い紙束だった。
オスカーが眉を上げる。
「手紙?」
「いいえ」
レティシアは一枚を広げる。
そこには、名が並んでいた。
ただし、いくつかの名は、刃物で削られたように消されている。
セドラスの表情が変わった。
「名簿か」
「名簿というより、立会いの記録ね」
レティシアは紙の端を指でなぞった。
「日付。場所。証人。そして、約束を交わした者の名」
エルマーが低く言う。
「消された約束」
地下室の空気が、わずかに重くなった。
レティシアは紙をめくった。
同じ形式の記録が続いている。
けれど、ある時期から急に、名前だけが消され始めていた。
「都合の悪い相手を、後からいなかったことにした」
オスカーの声から軽さが消える。
「約束だけ奪って、名前を消したってことか」
「そうなる」
レティシアは最後の紙を取り出した。
そこには、他の紙とは違う印があった。
中央広場の鐘楼。
そして、その下に小さく書かれた言葉。
――鐘が三度鳴る日、失われた名を戻す。
レティシアの指が止まった。
エルマーが彼女を見る。
「お嬢?」
「……中央広場」
声が、わずかに掠れていた。
オスカーがすぐに気づく。
「知ってるのか」
レティシアは答えなかった。
けれど、その沈黙が答えだった。
セドラスが紙を覗き込む。
「鐘楼の地下に続く印だ。古い貴族裁定で使われた通路の符号に似ている」
「つまり、この地下室は終点じゃない」
エルマーが壁を見る。
レティシアも同じ方向を見た。
石壁の一部に、薄く削られた紋章がある。
表から見れば傷にしか見えない。
だが、紙に残された印と重ねれば、それは道を示す形になっていた。
オスカーが小さく笑った。
「導かれた先の、さらに先か」
「笑うところじゃない」
エルマーが言う。
「分かってる。けどさ」
オスカーは、消された名簿を見た。
「こういうの、嫌いなんだよ。誰かがいたことを、後から消すやつ」
レティシアは紙束を布に戻した。
「持ち帰るわ」
セドラスが頷く。
「上で写しを取る。原本は崩れやすい」
「それから?」
エルマーが問う。
レティシアは壁の紋章を見た。
「中央広場の鐘楼へ行く」
「今から?」
「今から」
オスカーが天井を仰いだ。
「ほらな。落ちた時点で、休日は終わってた」
レティシアは涼しい顔で返す。
「最初から休日じゃないわ」
「お嬢、それ一番ひどい」
エルマーは紙束を受け取り、低く言った。
「消された名を戻す、か」
その言葉に、地下室の奥で風が動いた。
誰もいないはずの暗がりから、古い紙の匂いが流れてくる。
まるで、忘れられた誰かが、ようやく息をしたように。
レティシアは壁の紋章に触れた。
「行くわよ」
その声は、失われた名を取り戻そうとする者の声だった。




