第65話「欠けた名前」
書斎は静かだった。
机の上には古い資料が広げられている。
王都中央広場改修記録。
削られた紋章。
そして、二十年前に消えた家。
レティシアは腕を組んだまま資料を見つめていた。
「つまり」
沈黙を破ったのはオスカーだった。
「家は消された」
「ああ」
エルマーが頷く。
「記録も消された」
「そうなるな」
二人のやり取りに、セドラスが苦笑した。
「お前たち、勝手に結論へ飛ぶのはやめなさい」
「兄上も同じこと考えてるだろ」
「考えている」
即答だった。
レティシアは額を押さえた。
この兄弟、本当に似ている。
セドラスは一枚の羊皮紙を机へ置いた。
古びた紙だった。
端は破れ、文字もほとんど消えている。
「唯一残っていた記録だ」
ルシアンが身を乗り出す。
「読めるんですか?」
「全部は無理だ」
セドラスは指先で一行を示した。
そこだけはかろうじて残っていた。
『――リア家』
沈黙。
レティシアが眉をひそめる。
「リア家?」
「後ろだけだな」
オスカーが言う。
「前が消されてる」
エルマーも資料を覗き込む。
「偶然には見えない」
「私もそう思う」
セドラスが頷いた。
意図的だった。
名前だけが消されている。
家そのものを忘れさせるように。
レティシアは文字を見つめる。
リア。
どこかで聞いた気がした。
だが思い出せない。
胸の奥がざわつく。
その時だった。
――リア。
誰かの声が聞こえた。
優しい声だった。
女性の声。
懐かしい。
けれど。
誰なのか分からない。
レティシアは息を呑んだ。
視界が揺れる。
鐘の音。
遠くで鳴っている。
王都の鐘ではない。
もっと近い。
もっと静かな場所。
――リア。
もう一度。
今度ははっきり聞こえた。
「お嬢」
オスカーの声だった。
レティシアは顔を上げる。
気が付けば全員がこちらを見ている。
「どうした」
エルマーの声も聞こえた。
「今」
レティシアは言葉を探した。
「声が聞こえた」
書斎が静かになる。
セドラスの目が細くなった。
「やはりか」
「やはり?」
ルシアンが聞く。
セドラスは少し考えたあと、机の引き出しから小さな包みを取り出した。
布に包まれた古い品だった。
「これも一緒に見つかった」
布が外される。
中から現れたのは銀色のペンダントだった。
古い装飾。
そして。
表面には削られた紋章と同じ意匠が刻まれている。
レティシアの鼓動が速くなる。
見た瞬間だった。
頭の奥が痛んだ。
知らないはずなのに。
知っている。
そんな感覚。
「お嬢」
オスカーが一歩前へ出る。
エルマーも警戒するように立つ。
セドラスは静かにペンダントを見つめていた。
「この家は消された」
誰も口を挟まない。
「だが」
セドラスは続ける。
「完全には消えなかった」
ランプの光が銀の装飾を照らす。
「名前は消された」
「記録も消された」
「それでも残ったものがある」
レティシアはペンダントから目を離せない。
胸の奥が痛む。
懐かしい。
悲しい。
理由は分からない。
だが確かに感じる。
セドラスはゆっくりと言った。
「私は、この家が君と無関係だとは思っていない」
沈黙。
レティシアの指先が震えた。
そして。
ペンダントの裏側に刻まれた小さな文字が目に入る。
擦り切れていた。
ほとんど読めない。
それでも。
一文字だけ。
かろうじて残っていた。
『レ』
その瞬間。
レティシアの呼吸が止まった。




