第62話「削られた紋章」
石壁に触れた瞬間だった。
景色が揺れる。
中央広場が消える。
昼の光が消える。
代わりに現れたのは。
夜だった。
雨。
石畳。
鐘楼。
濡れた石壁。
冷たい風。
レティシアは息を呑む。
見ている。
でも。
そこにいるわけではない。
記憶だった。
誰かがいる。
石壁の前。
黒い外套。
男か女かも分からない。
ただ。
必死だった。
ガリッ。
石を削る音。
ガリッ。
ガリッ。
紋章が削られていく。
「急げ」
低い声。
誰かが言う。
「時間がない」
また石を削る。
紋章。
名前。
何かを消している。
必死に。
まるで。
存在そのものを隠すように。
「残すな」
別の声。
「誰にも残すな」
レティシアの背筋が震える。
なぜ。
なぜ消す。
その時。
黒い外套の人物が振り返った。
顔は見えない。
フードの奥。
闇しかない。
だが。
その声だけは聞こえた。
はっきりと。
――見つかるな。
そこで。
記憶は途切れた。
「お嬢!」
オスカーの声。
視界が戻る。
中央広場。
昼。
鐘楼。
石壁。
全部戻っている。
レティシアは膝をついていた。
呼吸が乱れている。
ルシアンが駆け寄る。
「姉上!」
エルマーもしゃがみ込む。
「見たか」
静かな声。
レティシアは答えなかった。
答えられなかった。
今のは。
夢ではない。
幻でもない。
確かに見た。
沈黙。
やがて。
レティシアは石壁を見上げる。
そして。
ぽつりと呟いた。
「消された」
全員が止まる。
「この紋章」
小さな声。
「誰かが消した」
ルシアンの目が見開く。
オスカーも。
エルマーも。
何も言わない。
だが。
全員が同じことを考えていた。
失われた名。
それは。
忘れられたのではない。
消されたのだ。
意図的に。
誰かによって。
中央広場の喧騒が遠く聞こえる。
鐘楼の影が石畳へ落ちていた。
その影は。
まるで過去そのものだった。
帰宅した頃には夕方になっていた。
公爵家の書斎。
レティシアは椅子へ沈み込む。
頭が重い。
考えたくない。
だが。
考えずにはいられない。
失われた名。
鐘楼。
石壁。
消された紋章。
全部が繋がり始めている。
オスカーが紅茶を置く。
「今日は終わりにするか」
エルマーも頷く。
「ああ」
レティシアもそうしたかった。
本当に。
そうしたかった。
その時だった。
コンコン。
扉が叩かれる。
珍しく。
双子が顔を上げた。
オスカーが小さく笑う。
「来たな」
エルマーも答える。
「ああ」
レティシアが眉をひそめる。
「何が」
二人は答えない。
扉が開く。
入ってきた人物を見て。
レティシアは固まった。
「セドラス?」
銀縁眼鏡。
整った顔立ち。
穏やかな微笑み。
ヴァレント公爵家次男。
次期宰相候補。
セドラス・ヴァレントだった。
「久しぶりだね、レティシア」
穏やかな声。
レティシアは首を傾げる。
「どうしてここに」
セドラスは答えない。
代わりに。
手に持っていた資料を机へ置いた。
厚い書類。
古い記録。
そして。
一枚の写し。
そこには。
石壁の紋章とよく似た印が描かれていた。
書斎が静まり返る。
レティシアの鼓動が速くなる。
セドラスは眼鏡の位置を直した。
そして。
静かに言った。
「その紋章について話がある」
その瞬間。
物語は。
また一歩。
過去へ近付いた。




