第61話「鐘楼の影」
中央広場は賑わっていた。
露店。
噴水。
行き交う人々。
笑い声。
呼び込み。
荷車の音。
いつも通り。
本当に。
いつも通りだった。
なのに。
レティシアだけは動けなかった。
鐘楼を見上げる。
高い。
王都のどこからでも見える象徴。
ずっと昔からそこにある。
はずだった。
沈黙。
風が吹く。
帽子のつばが揺れた。
茶髪のウィッグが頬をかすめる。
視線は離れない。
鐘楼から。
離れない。
「お嬢」
オスカーの声。
レティシアは返事をしない。
「お嬢」
二回目。
「聞こえてる」
ようやく答える。
エルマーが静かに問う。
「何か思い出しましたか」
沈黙。
分からない。
思い出した。
気もする。
でも。
思い出していない。
気もする。
嫌な感覚だった。
「……分からない」
小さく言う。
本当に分からなかった。
ただ。
胸の奥がざわつく。
鐘楼を見るたび。
何かが引っかかる。
その時だった。
鐘が鳴る。
ゴォォン――
低く。
重く。
広場へ響く。
その瞬間。
景色が揺れた。
石畳。
冷たい風。
走る音。
誰かの足音。
息が苦しい。
そして。
誰かが叫んでいる。
――逃げろ。
レティシアの目が見開く。
呼吸が止まった。
「お嬢」
オスカーの声。
景色が戻る。
広場だった。
噴水。
人々。
昼の光。
全部戻っている。
でも。
心臓だけは速かった。
「姉上」
ルシアンが覗き込む。
レティシアは息を吐いた。
ゆっくり。
ゆっくり。
「大丈夫」
反射的に言う。
沈黙。
オスカーがエルマーを見る。
エルマーもオスカーを見る。
「三番だな」
オスカーが言った。
「三番だ」
エルマーが頷く。
ルシアンが首を傾げる。
「何がですか」
「お嬢」
オスカーが即答した。
「やめて」
レティシアが言う。
「まだ何もしてない」
「その会話が嫌」
オスカーが吹き出した。
エルマーも小さく笑う。
ルシアンだけが置いていかれていた。
「だから何なんですか三番って」
「逃走前」
「逃走前」
双子が同時に答えた。
ルシアンが黙る。
レティシアも黙る。
図星だった。
本当に帰ろうと思っていた。
その時。
オスカーの視線が動く。
「ん?」
エルマーも見る。
広場の端。
鐘楼へ続く石段。
その脇。
古い石壁。
風雨で削れた跡。
誰も気にしない場所。
でも。
そこにあった。
刻まれた模様。
レティシアが動く。
足が勝手に向いていた。
石壁へ近付く。
指先で触れる。
削れている。
欠けている。
でも。
分かった。
「……これ」
ルシアンが息を呑む。
「紋章」
昨夜描いたもの。
完全には一致しない。
でも。
似ていた。
確かに。
似ている。
沈黙。
広場の喧騒が遠くなる。
石壁。
鐘楼。
紋章。
失われた名。
全部が少しずつ繋がり始めていた。
そして。
レティシアの頭の奥で。
もう一つ。
声が響いた。
今度は。
はっきりと。
――見つけた。
誰の声かは分からない。
でも。
その言葉だけは。
妙に鮮明だった。
レティシアの背筋を冷たいものが走る。
鐘楼の影が。
静かに石畳へ伸びていた。




