第60話「鐘の下」
結局。
来ていた。
中央広場に。
ただし。
公爵令嬢レティシアとしてではない。
もちろん、レオとしてでもない。
今日のレティシアは、地味な町娘風のワンピースに薄い外套を羽織り、帽子を目深に被っていた。
銀髪は茶髪のウィッグで隠している。
昼の中央広場で、公爵令嬢が堂々と歩けば目立つ。
だからといって、黒外套のレオで来るのも違う。
今回は、調べに来たのではない。
確認しに来ただけ。
少なくとも。
レティシアはそういうことにしていた。
レティシアは心から思う。
帰りたい。
本当に帰りたい。
「お嬢」
「何」
「顔に出てる」
オスカーだった。
「帰りたいって顔してる」
「帰りたい」
即答。
エルマーがため息を吐く。
「来たばかりです」
「帰りたい」
「知ってます」
ルシアンも頷いた。
「知っています」
誰も味方がいなかった。
本当に酷かった。
中央広場は今日も賑わっていた。
噴水。
露店。
行き交う人々。
そして。
広場の中央。
高い鐘楼。
昼の光を浴びながら静かに立っている。
レティシアは見上げる。
その瞬間。
胸の奥がざわついた。
沈黙。
知らない。
はずだった。
なのに。
知っている気がした。
風が吹く。
鐘楼の影が石畳を横切る。
その影を見た瞬間。
頭の奥が痛んだ。
「っ……」
小さく息を飲む。
エルマーが気付く。
「お嬢」
「何でもない」
何でもなくなかった。
でも。
言いたくなかった。
その時。
遠くで子供の笑い声がした。
走る足音。
石畳。
風。
鐘。
一瞬。
景色が揺れる。
知らない子供。
白い服。
誰かの手。
そして。
声。
――見つけた。
沈黙。
レティシアが立ち止まる。
顔色が変わった。
オスカーの笑みが消える。
ルシアンも息を呑む。
「姉上?」
返事はない。
レティシアは鐘楼を見ていた。
まるで。
そこに誰かがいるみたいに。
でも。
誰もいない。
沈黙。
長い沈黙。
そして。
ぽつりと。
レティシアは呟いた。
「……ここだ」
全員が止まる。
「何が」
オスカーが聞く。
レティシア自身も分からなかった。
なぜ。
そんな言葉が出たのか。
でも。
確信だけがあった。
ここだ。
ここから始まった。
あるいは。
ここで終わった。
何かが。
風が吹く。
鐘楼の上。
誰もいないはずの場所。
その影が。
ほんの一瞬だけ動いた気がした。
レティシアの目が細くなる。
そして。
頭の中に。
もう一つの言葉が浮かんだ。
――思い出せ。
背筋が冷えた。
誰にも聞こえない。
でも。
確かに聞こえた。
鐘の下で。
失われた記憶が。
少しずつ目を覚まし始めていた。




