第58話「思い出したくないもの」
逃げるべきだった。
淡雪シューが終わった時点で。
レティシアは心からそう思った。
「姉上」
「嫌」
「まだ何も言ってません」
「言う前から嫌」
即答だった。
ルシアンがため息を吐く。
最近。
義姉の扱いが少し分かってきた。
オスカーが笑う。
「成長したな」
「不本意です」
エルマーも頷いた。
「分かります」
「お前ら何で仲良くなってるの」
レティシアが呆れる。
三人は無視した。
酷かった。
本当に酷かった。
そして。
机の上。
古い本。
紋章。
失われた名。
全部そのまま。
逃げ場がない。
レティシアは立ち上がる。
「仕事がある」
「ありますね」
エルマーが即答する。
「訓練もある」
オスカーが笑う。
「図書室もあります」
ルシアンが静かに言った。
全員いた。
なぜか全員いた。
「帰って」
「無理」
「無理です」
「無理だな」
三方向から返された。
四面楚歌だった。
沈黙。
レティシアは諦めた。
少しだけ。
本当に少しだけ。
「……何が知りたいの」
その瞬間。
三人の目が変わった。
しまった。
口が滑った。
本当に滑った。
ルシアンが静かに本を開く。
「この紋章です」
ページを示す。
古い紋章。
その下。
失われた名。
レティシアの視線が止まる。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
景色が揺れた。
古い石畳。
冷たい風。
誰かの声。
遠くで鳴る鐘。
知らない。
はずだった。
沈黙。
気付けば。
指先が震えていた。
「姉上?」
ルシアンが呼ぶ。
レティシアは我に返った。
息を吐く。
「知らない」
またそれだった。
オスカーが言う。
「また知ってる時のやつ」
「黙って」
「二回目」
「黙って」
エルマーが小さく笑った。
珍しかった。
本当に珍しく。
少しだけ。
レティシアも気が抜ける。
でも。
次の瞬間。
視界の端。
紋章が映る。
頭の奥が痛んだ。
知らない。
知らないはずだ。
なのに。
何かが引っかかる。
思い出せそうで。
思い出したくない。
沈黙。
そして。
ぽつりと。
レティシアは呟いた。
「……鐘」
全員が止まる。
「何?」
オスカーが聞く。
レティシア自身も驚いていた。
なぜ今。
その言葉が出たのか。
分からない。
「鐘の音がした気がする」
静かな声。
ルシアンとエルマーが顔を見合わせる。
オスカーの笑みも消えていた。
初めてだった。
失われた名に繋がる記憶が。
ほんの少しだけ。
形を持ったのは。
窓の外で。
昼の鐘が鳴った。
その音に。
レティシアの肩がわずかに震えた。




