第57話「失われた名」
シュークリームは偉大だった。
少なくとも。
昨夜から続いていた重苦しい空気を少しだけ吹き飛ばすくらいには。
レティシアは最後の一口を味わいながら目を閉じる。
沈黙。
そして。
「満足」
ぽつりと言った。
オスカーが吹き出す。
「世界救われた?」
「救われた」
「安い世界」
「安くない」
レティシアは即答した。
「淡雪シューは特別」
「知ってます」
エルマーが言う。
知りすぎるほど知っていた。
十年以上見ている。
この人は。
本当にシュークリームだけは本気だった。
沈黙。
そして。
机の端。
紋章の紙。
――思い出せ。
白い紙。
空気が少しだけ重くなる。
レティシアの視線が逸れた。
オスカーは見た。
エルマーも見た。
でも。
責めない。
今はまだ。
その時だった。
コンコン。
扉が鳴る。
「入ります」
ルシアンだった。
手には数冊の本。
分厚い。
古そうな装丁。
オスカーが眉を上げる。
「何それ」
「図書室」
即答。
嫌な予感しかしなかった。
レティシアが顔をしかめる。
「帰って」
「無理です」
即答。
最近。
ルシアンが双子寄りになっている気がした。
気のせいではない。
ルシアンは机へ本を置く。
どん。
どん。
どん。
重い。
嫌な音だった。
「昨夜」
静かな声。
「少し気になったので調べました」
レティシアが天井を見た。
終わった。
本能がそう告げていた。
ルシアンは紋章の写しを広げる。
「完全一致ではありません」
ページを開く。
古い記録。
公爵家の蔵書。
昔の貴族家系図。
紋章集。
オスカーが覗き込む。
「似てるな」
「似ているだけです」
ルシアンが答える。
「ですが」
一拍。
「共通点があります」
空気が変わる。
レティシアだけが黙った。
ページの隅。
古い文字。
かすれた記録。
そして。
そこに書かれていた言葉。
――失われた名。
沈黙。
オスカーが読む。
「失われた名?」
エルマーも眉をひそめる。
聞いたことがない。
ルシアンが頷いた。
「正式な家名ではありません」
「じゃあ何?」
「記録から消された名前です」
空気が止まった。
レティシアの指が動く。
本当に。
ほんの少しだけ。
ルシアンは見逃さなかった。
「姉上」
静かな声。
レティシアは答えない。
「知っていますね」
沈黙。
オスカーがレティシアを見る。
エルマーも見る。
レティシアは窓の外を見ていた。
面倒だった。
本当に。
面倒だった。
「知らない」
小さく言う。
「それ」
オスカーが言う。
「知ってる時のやつ」
「黙って」
即答。
ルシアンがため息を吐く。
最近。
義姉が分かりやすすぎた。
沈黙。
窓の外。
朝の光。
でも。
机の上だけは違う。
紋章。
失われた名。
思い出せ。
全部が繋がり始めていた。
そして。
レティシアは知っていた。
知っているから。
思い出したくない。
その事実を。
双子も。
ルシアンも。
少しずつ理解し始めていた。
沈黙。
その時。
オスカーが本を閉じる。
「よし」
全員が見る。
「調べよう」
即答だった。
「やめて」
レティシアも即答する。
「無理」
「無理だな」
エルマーも頷く。
ルシアンも静かに言う。
「僕も調べます」
四面楚歌だった。
レティシアは深くため息を吐く。
昨日より。
確実に増えている。
協力者が。
そして。
面倒ごとも。
窓から吹いた風が。
机の上の紙を揺らした。
――思い出せ。
その文字だけが。
妙に鮮明だった。




