第56話「淡雪シューの朝」
沈黙。
書斎には時計の音だけが響いていた。
レティシアは眠っている。
でも。
机の上は眠っていなかった。
紋章。
描き直した紙。
インク。
そして。
何度も失敗した跡。
オスカーが紙を一枚手に取る。
同じ形。
少し違う線。
また同じ形。
また違う。
何枚も。
何枚も。
「……本気だな」
小さく呟く。
エルマーは答えない。
答える必要もなかった。
見れば分かる。
レティシアは思い出そうとしていた。
眠る時間を削ってまで。
そして。
机の端。
白い紙。
黒い文字。
――思い出せ。
沈黙。
オスカーが低く言う。
「気に入らない」
珍しく。
本当に珍しく。
笑っていなかった。
「誰だよ」
エルマーの目も細くなる。
「分からない」
静かな声。
でも。
普段より少しだけ冷たい。
「でも」
一拍。
「お嬢を知っている」
沈黙。
それが一番厄介だった。
オスカーが小さく息を吐く。
「……で」
エルマーが視線を向ける。
「なに?」
オスカーが足元を指した。
「これ出す?」
そこには。
Fil d’Argent。
金曜日限定。
淡雪シュー。
エルマーは即答した。
「出すか」
「起きるかな」
「起きる」
「絶対?」
「絶対」
オスカーが吹き出した。
「その自信どこから来るの」
「十年以上見てるだろ」
箱を開ける。
甘い香りが広がった。
焼きたてのシュー生地。
淡雪みたいな白いクリーム。
ほんのり甘い香り。
沈黙。
数秒。
さらに数秒。
レティシアの指が動いた。
オスカーが笑う。
「起きた」
「だろ」
レティシアの睫毛が震える。
ゆっくり目が開く。
ぼんやりした視線。
そして。
箱を見る。
停止。
さらに。
二度見。
完全停止。
「……それ」
「おはようございます」
エルマーが言う。
「それ」
「おはようございます」
「それ」
オスカーが吹き出した。
「完全に覚醒した」
レティシアが椅子から起き上がる。
まだ寝癖が残っている。
でも。
目だけは完全に覚醒していた。
「淡雪シュー?」
「淡雪シューです」
「本物?」
「本物です」
「買えたの?」
「並びました」
「何時間?」
「二時間」
レティシアが固まる。
「二時間!?」
「お嬢のせい」
「私じゃない」
「お嬢のせい」
エルマーも頷く。
「お嬢のせいです」
「理不尽」
「理不尽じゃありません」
そして。
エルマーが静かにテーブルを整える。
白磁の皿。
銀の縁取り。
細い青の装飾。
レティシア専用。
オスカーが紅茶を置く。
今日の茶葉はダージリン。
淡雪シューに合わせた。
レティシアが目を細める。
「ダージリン」
「淡雪シューなので」
エルマーが答える。
オスカーが笑った。
「こだわり騎士」
「お前も並んだだろ」
「並んだ」
レティシアは席へ座る。
沈黙。
双子も座る。
そして。
儀式が始まった。
オスカーが呟く。
「始まった」
エルマーも頷く。
「始まったな」
まず。
眺める。
横から見る。
上から見る。
少し回す。
焼き色を見る。
沈黙。
「今日の焼き色良い」
「始まったな」
オスカーが言う。
レティシアは無視した。
次。
香り。
「バター強め」
「そうですか」
エルマーが返す。
次。
粉糖。
「均一」
「職人か」
オスカーが言う。
そして。
生地だけ。
小さく千切る。
ぱく。
沈黙。
「うまい」
「まだクリーム食べてない」
オスカーが突っ込む。
次。
クリームだけ。
小さく取る。
ぱく。
沈黙。
レティシアが目を閉じる。
エルマーが問う。
「どうですか」
「勝った」
「誰にですか」
「知らない」
オスカーが笑いを堪えた。
そして。
最後。
生地。
クリーム。
一緒。
ぱく。
沈黙。
完全に沈黙。
目を閉じる。
幸せそうだった。
オスカーが小声で言う。
「死んだ?」
「生きています」
エルマーが即答する。
レティシアが目を開けた。
そして。
ぽつりと言う。
「世界はまだ捨てたものじゃない」
「大袈裟」
「大袈裟じゃない」
珍しく。
本当に珍しく。
昨夜から張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
でも。
机の端。
紋章の紙。
そして。
――思い出せ。
その文字は。
まだそこにあった。
レティシアの視線が一瞬だけ止まる。
エルマーは見た。
オスカーも見た。
でも。
今は何も言わない。
今だけは。
シュークリームを優先することにした。
それが。
双子なりの優しさだった。




