第55話「眠れなかった朝」
どこかで。
ずっと。
その感覚だけが残った。
レティシアは窓の外を見る。
夜。
誰もいない庭。
揺れる木々。
風。
それだけだった。
なのに。
視線だけが消えない。
沈黙。
机の上。
紋章。
そして。
――思い出せ。
短い言葉。
それが頭から離れなかった。
ベッドへ入ったのは、空が白み始めた頃だった。
だが。
眠れなかった。
結局。
一睡もできないまま朝になった。
朝。
公爵邸。
食堂。
「来ないな」
オスカーが言った。
エルマーも時計を見る。
朝食の時間は過ぎている。
レティシアが寝坊すること自体は珍しくない。
でも。
今日は違った。
「寝てないな」
エルマーが言う。
オスカーが頷く。
「だろうね」
昨夜の顔を思い出す。
紋章を見た時の顔。
あれは。
寝られる人間の顔じゃなかった。
沈黙。
オスカーが立ち上がる。
「行く?」
「行くか」
二人の意見は一致した。
どうせ起きている。
そう思った。
だが。
部屋へ向かう途中。
ふとオスカーが足を止める。
「今日」
「はい」
「金曜だ」
沈黙。
エルマーも止まる。
数秒。
「買うか」
「買う」
即答だった。
Fil d’Argent。
朝。
店の前には既に行列ができている。
王都でも有名な人気店。
そして。
金曜日限定。
淡雪シュー。
「お嬢なら並んでる」
オスカーが言う。
「普段なら」
エルマーが訂正した。
今日は来ない。
分かっていた。
昨夜の状態では。
来られるはずがない。
店内へ入る。
焼きたての香り。
甘い匂い。
淡雪みたいな白いクリーム。
「二箱」
エルマーが言う。
店員が笑った。
「またお嬢様ですか?」
「またです」
慣れた返答だった。
公爵邸。
朝。
レティシアの部屋。
ノック。
返事はない。
もう一度。
ノック。
沈黙。
オスカーが顔を見合わせる。
「入るよー」
返事はない。
扉を開ける。
そこには。
机に突っ伏したまま眠っているレティシアがいた。
机の上には紙。
紋章。
インク。
そして。
何度も描き直した跡。
オスカーが小さく息を吐く。
「やっぱり」
エルマーも黙る。
眠れなかった。
その事実だけは。
十分伝わった。
そして。
机の端。
一枚の紙。
そこに書かれた文字を見て。
二人の表情が変わった。
――思い出せ。
沈黙。
オスカーが低く呟く。
「……誰だよ」
初めてだった。
本気で笑わなかったのは。




