第54話「眠れない理由」
眠れなかった。
深夜。
侯爵邸。
静かな廊下。
レティシアは自室へ向かっていた。
もう解散したはずだった。
もう終わったはずだった。
そう思っていた。
「お嬢」
低い声。
止まる。
嫌な予感しかしない。
振り返る。
エルマー。
オスカー。
そして。
壁にもたれたルシアン。
全員いた。
「なんでいるの」
即答だった。
オスカーが笑う。
「だって」
一拍。
「お嬢絶対何か知ってるし」
レティシアは顔をしかめた。
「知らない」
「嘘です」
「ルシアンまで」
「知ってます」
即答。
今日は本当に即答人間が多い。
エルマーが小さく息を吐いた。
「お嬢」
「何」
「今夜」
沈黙。
「紋章を見た時」
レティシアの足が止まる。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
「顔が変わりました」
沈黙。
オスカーが頷く。
「変わった」
ルシアンも頷く。
「変わりました」
三対一。
最悪だった。
「……見間違い」
「見間違いじゃない」
「見間違いだってば」
「お嬢」
「何」
「私達」
一拍。
「十年以上見てます」
反論できなかった。
沈黙。
夜風が窓を鳴らす。
ルシアンが静かに言う。
「姉上」
「何」
「思い出したくないんですか」
空気が止まった。
レティシアは何も答えない。
答えられない。
それだけで。
十分だった。
三人とも。
同じことを理解した。
知らないんじゃない。
思い出したくない。
そういう顔だった。
沈黙。
オスカーが珍しく真面目な声で言う。
「じゃあさ」
レティシアが顔を上げる。
「俺達も調べる」
即答だった。
「やめて」
「無理」
「やめて」
「無理」
エルマーが頷く。
「今回は私も同意見です」
ルシアンも静かに言った。
「僕も」
四面楚歌だった。
レティシアは深くため息を吐く。
黒外套。
紋章。
既知の影。
全部が面倒だった。
本当に。
全部。
その夜。
ようやく一人になったレティシアは机に向かう。
灯りは一つ。
机の上。
路地で写し取った紋章。
指先で紙をなぞる。
沈黙。
そして。
小さく呟いた。
「……なんで今さら」
誰にも聞こえない声だった。
その夜。
ようやく一人になったレティシアは、自室の机に向かった。
灯りは一つ。
机の上には、路地で写し取った紋章。
そして、何度も描き直した同じ形。
ペン先が止まる。
「……違う」
小さく呟く。
違う。
でも。
似ている。
紙を裏返す。
もう一枚。
もう一度描く。
それでも違う。
記憶の中の形と。
今の印は少しだけ違っていた。
だから余計に気味が悪い。
完全に同じなら。
昔の何かだと切り捨てられた。
でも違う。
誰かが手を加えている。
最近。
新しく。
その事実だけが嫌だった。
コンコン。
小さな音。
レティシアが顔を上げる。
「誰」
「僕です」
ルシアンだった。
「帰って」
「開いてますよね」
「帰って」
「無理です」
即答。
レティシアがため息を吐く。
扉が開く。
銀髪の義弟が入ってきた。
手にはカモミールティー。
当然のような顔だった。
「眠れないんですか」
「眠い」
「それは知っています」
「じゃあ帰って」
「帰りません」
即答。
今日は本当に即答人間が多かった。
ルシアンは机を見る。
紋章。
紙。
何枚も。
沈黙。
「姉上」
静かな声。
「思い出してるんですか」
レティシアの手が止まる。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
ルシアンは見逃さない。
「やっぱり」
「何が」
「知ってるんですね」
沈黙。
レティシアは答えない。
ルシアンも追及しない。
代わりにカモミールティーを置く。
「無理に聞きません」
優しい声。
でも。
続く言葉は優しくなかった。
「でも」
ルシアンが言う。
「今さら現れたなら」
一拍。
「向こうは姉上を探していた」
静かな声。
レティシアの目が細くなる。
それは。
自分も考えていたことだった。
探していた。
見つけた。
その言葉。
知らない相手に向ける言葉じゃない。
「……面倒」
ぽつりと呟く。
ルシアンが少し笑った。
「知ってます」
沈黙。
窓の外。
夜風。
その時だった。
カサリ。
何かが動く音。
レティシアが顔を上げる。
ルシアンも反応した。
窓。
庭。
誰もいない。
でも。
確かに音がした。
沈黙。
レティシアが立ち上がる。
「姉上」
「確認するだけ」
「その台詞で確認だけだったことあります?」
なかった。
一度も。
ルシアンが額を押さえる。
その時。
窓辺に何かが引っ掛かっているのが見えた。
白い紙。
レティシアの目が止まる。
空気が変わる。
ゆっくり近づく。
紙を取る。
そこには。
たった一行。
黒いインク。
――思い出せ。
沈黙。
ルシアンの顔から笑みが消えた。
レティシアも動かない。
夜風だけが紙を揺らしている。
そして。
机の上。
写し取った紋章。
その横に置かれた紙。
二つを見た瞬間。
レティシアは確信した。
これは偶然じゃない。
誰かが。
自分を見ている。
どこかで。
ずっと。




