第53話「残された印」
ユリウスは答えなかった。
ただ。
その背中を見ていた。
読むように。
確かめるように。
まるで、答えがそこに書いてあるみたいに。
沈黙。
夜風だけが路地を抜ける。
最初に動いたのはオスカーだった。
「じゃあ帰ろっか」
軽い声。
でも。
全員分かっている。
帰らせるための言葉だ。
「おやすみ監察官殿」
オスカーが笑う。
ユリウスは視線を逸らさない。
「まだ終わっていません」
静かな声。
「俺たちは終わった」
オスカーが即答する。
エルマーが小さく息を吐いた。
「補佐官」
低い声。
「これ以上は正式な事情聴取になります」
沈黙。
ユリウスの目が細くなる。
図星だった。
疑いはある。
だが。
証拠はない。
今の監察側にできることは限られている。
「……逃がしますか」
ユリウスが低く言う。
オスカーが肩を竦めた。
「違うよ」
一拍。
「今日は捕まらないだけ」
沈黙。
ユリウスの目が動く。
ほんの少しだけ。
その返答を面白がったみたいに。
レオはフードを深く被る。
「行くよ」
短い声。
エルマーとオスカーが動く。
三人が路地を出る。
数歩。
歩いたところで。
背後から声が飛んだ。
「レオ」
足が止まる。
振り返らない。
振り返りたくない。
「次は逃がしません」
静かな声だった。
脅しじゃない。
宣言。
レオは数秒だけ黙る。
それから。
「面倒」
小さく吐き捨てた。
オスカーが吹き出す。
「本日最多更新」
「黙れ」
「更新おめでとうございます」
「エルマーまで言うな」
三人が歩き出す。
背後。
路地の奥。
ユリウスはまだ立っていた。
地面の印。
消えた黒外套。
去っていくレオ。
全部を見ながら。
「……既知、ですか」
小さく呟く。
誰にも聞こえない声。
その目は。
もう完全に、別の何かを追い始めていた。
王都。
深夜。
レティシアの屋敷。
玄関を開けた瞬間だった。
「お嬢」
低い声。
レオは止まった。
嫌な予感しかしない。
振り返る。
エルマー。
オスカー。
逃げ道がなかった。
「……何」
「何じゃない」
即答。
オスカーが笑う。
でも目は笑っていない。
「説明会」
「帰る」
「帰った」
「寝る」
「寝る前」
「嫌」
「却下」
早かった。
レオは本気で帰りたかった。
今度こそ。
本当に。
応接室へ入る。
扉が閉まる。
ようやく人目がなくなった。
レオは深く息を吐く。
それから。
フードを下ろした。
黒髪が肩へ落ちる。
首元の留め具を外す。
黒外套を脱ぐ。
重たい布が椅子へ置かれた。
張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
レオが消える。
代わりに現れたのは。
侯爵令嬢レティシアだった。
オスカーが紅茶を受け取りながら言う。
「お帰り、お嬢」
レティシアは嫌そうな顔をした。
「帰ってきた途端それ?」
「当然」
エルマーが即答した。
「ここから本番です」
紅茶。
焼き菓子。
そして。
尋問。
「まず一個目」
オスカーが指を立てる。
「黒外套」
「知らない」
「早い」
「聞いてない」
「知ってる」
レティシアが顔をしかめる。
エルマーが静かに言った。
「知らない人間に」
一拍。
「見つけた、とは言われません」
沈黙。
レティシアは紅茶を飲む。
オスカーが続ける。
「しかも」
「しかも?」
「お嬢」
「何」
「動揺してた」
即答。
レティシアが黙る。
エルマーが頷いた。
「してました」
「してない」
「してました」
「してない」
「してました」
「二人ともうるさい」
オスカーが吹き出した。
「これ認めたくない時のやつ」
「黙って」
その時。
扉が開いた。
「姉上」
静かな声。
ルシアンだった。
銀髪。
夜着の上に軽く上着を羽織っている。
眠そうだった。
でも。
レティシアを見る目だけは妙に冴えている。
「あ」
オスカーが笑った。
「追加来た」
「帰って」
レティシアが即答する。
ルシアンは座った。
当然のように。
「何があったのですか?」
「何も」
「嘘です」
即答。
レティシアが頭を抱える。
今日は即答人間が多すぎた。
事情を聞いたルシアンは黙った。
数秒。
それから。
「その人」
静かな声。
「姉上を知っていたんですよね」
沈黙。
「知らない」
「姉上」
「何」
「それは知ってる時の答え方です」
最悪だった。
本当に。
最悪だった。
オスカーが笑う。
「ルシアンも同意見」
「ですね」
エルマーも頷く。
四面楚歌。
レティシアは天井を見た。
誰も味方がいない。
ルシアンは少し考える。
それから。
ぽつりと言った。
「でも変ですね」
空気が変わる。
「何が」
「その人」
ルシアンの目が細くなる。
「見つけた、って言ったんですよね」
「言った」
「探してたみたい」
沈黙。
オスカーの笑みが消える。
エルマーも黙る。
レティシアだけが視線を落とした。
探していた。
その言葉だけは。
妙に引っかかっていた。
知らないはずなのに。
知らないと言い切れない。
あの感覚。
「姉上」
ルシアンが呼ぶ。
静かな声。
「無茶しないでください」
レティシアは顔を上げる。
ルシアンは笑っていた。
優しい笑顔。
でも。
少しだけ怖かった。
「今度はちゃんと僕にも教えてください」
静かな声。
逃げ道を塞ぐような。
柔らかい圧だった。
レティシアは深くため息を吐いた。
黒外套。
監察官。
双子。
ルシアン。
面倒ごとが増えている。
確実に。
そして。
机の上。
路地で写し取った紋章の走り書き。
それを見た瞬間。
レティシアの表情が止まった。
本当に一瞬だけ。
誰にも気付かれないくらい短く。
でも。
エルマーは見た。
オスカーも見た。
ルシアンも見た。
三人とも。
何も言わなかった。
ただ。
同じことを思った。
――やっぱり知ってる。
その夜。
レティシアは一人になってから、もう一度だけ紋章を見た。
そして小さく呟く。
「……なんで今さら」
誰にも聞こえない声だった。




