第52話「既知の影」
路地に沈黙が落ちた。
誰もいない。
さっきまで確かにいたはずなのに。
残っているのは、湿った石畳と、刻まれた印だけ。
ユリウスはゆっくり屈んだ。
指先で石畳をなぞる。
「新しい傷ですね」
低い声。
「数日以内」
オスカーが眉を上げる。
「分かるんだ」
「仕事ですので」
即答だった。
レオは心底嫌そうな顔をした。
「便利」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「知っています」
オスカーが吹き出した。
エルマーは静かに額を押さえる。
いつもの流れだった。
でも。
今日は違う。
ユリウスの視線が印へ向いたまま動かない。
「この印」
ぽつりと言う。
「見覚えがありますか」
沈黙。
レオは答えない。
ユリウスは視線を上げる。
真っ直ぐ。
逃がさない目。
「ありますね」
「ない」
「嘘ですね」
「だから何で分かる」
「顔」
即答。
オスカーがまた吹き出した。
「監察官殿、遠慮なくなったなぁ」
「仕事ですので」
「便利な言葉」
「便利です」
レオは本気で帰りたかった。
今度こそ。
本当に。
その時だった。
ユリウスの視線が、レオの肩越しを見た。
「……なるほど」
小さな声。
エルマーが反応する。
「何か?」
ユリウスは答えない。
代わりに、路地の奥を見る。
誰もいない。
でも。
何かを考えている顔だった。
「補佐官」
監察側の部下が駆け込んでくる。
「西側も確認しました」
「どうでした」
「痕跡なしです」
ユリウスが小さく息を吐く。
そして。
「逃がしましたか」
静かな声。
でも。
どこか楽しそうだった。
レオが顔をしかめる。
「楽しそう」
「ええ」
ユリウスは否定しない。
「面白い案件ですから」
「最悪」
レオが即答する。
「帰りたい」
「帰りましょう」
エルマーが言う。
「そうだな」
オスカーも頷く。
珍しく二人とも即賛成だった。
レオはフードを深く被る。
本当に帰るつもりだった。
だが。
「レオ」
背後から呼ばれる。
嫌な予感しかしない。
振り返らない。
振り返りたくない。
それでも。
ユリウスの声は続く。
「さっきの男」
沈黙。
「あなたを知っています」
レオの足が止まる。
「そして」
ユリウスの目が細くなる。
「あなたも、あの男を知らない反応ではなかった」
空気が凍る。
オスカーが笑わなくなる。
エルマーも黙る。
ユリウスは静かに言った。
「何を隠しているんです?」
レオは振り返らない。
数秒。
沈黙。
それから。
「知らない」
低く返す。
「本当に」
ユリウスは答えなかった。
ただ。
その背中を見ていた。
読むように。
確かめるように。
まるで、答えがそこに書いてあるみたいに。




