(改善版)第3話 「名もなき青年は、噂になる」
「ねえ、聞いた?」
昼下がりの市場。
花を並べながら、ミナが身を乗り出した。
「また“あの人”が助けてくれたって」
「ああ、黒髪の兄ちゃんか」
向かいの店主が頷く。
「レオ、だろ?」
「そう、それ!」
ミナは嬉しそうに声を弾ませた。
「今日もすごかったんだよ。ぱっと来て、すぐ終わって——もういなかったの!」
「相変わらずだなあ」
「でもさ、あれ本当に人なのか?」
別の男が口を挟む。
「この前も聞いたぞ。路地裏で三人まとめて倒したって」
「それ、盛りすぎでしょ」
「この前は五人相手にしてたらしいぞ」
「それ絶対盛ってるでしょ」
「いや、似たような話ばっかりなんだよ」
ざわざわと、空気が広がる。
名前は知っている。
だが、正体は誰も知らない。
「でも、悪い人じゃないよ」
ミナがきっぱりと言った。
「だって、絶対助けてくれるもん」
その言葉に、周囲が少しだけ静かになる。
——否定は、出なかった。
その沈黙が、すべてを物語っていた。
「……面白い噂になってる」
少し離れた場所で、オスカーが笑った。
「完全に“正体不明のヒーロー”だ」
「笑い事ではありません」
エルマーは淡々と返す。
その視線の先。
人混みの中で、レティシアが普通に果物を選んでいる。
「目立ちすぎです」
「今さらじゃない?」
「今さらです」
「いやでも、いいじゃん。助けてるんだし」
「お嬢、軽すぎ」
「問題はそこではありません」
エルマーは小さく息を吐いた。
「“監察官”が動きます」
「あー……」
オスカーが空を見上げる。
「そっちかあ」
「どうする?止める?」
「無理だろ」
「……黒髪の青年、か」
低い声が落ちた。
王宮の一室。
机の上には、いくつもの報告書。
そのすべてに共通する記述。
——黒髪の青年。
——素早い。
——痕跡が少ない。
——そして、捕まらない。
「同一人物である可能性が高いな」
ユリウス・ヴァン・クロイツは、紙をめくる。
視線は鋭く、迷いがない。
「偶然にしては、出来すぎている」
ひとつ、指で叩く。
「出現位置が散らばりすぎている」
もうひとつ。
「だが、行動原理は一貫している」
短く息を吐く。
「……善意か」
呟く。
だがその目に、迷いはない。
「だからといって、放置はできない」
椅子から立ち上がる。
「正体不明の存在を、王都に置いておくわけにはいかない」
窓の外を見る。
人の流れ。日常。
その中に——確かに“異物”がいる。
「レオ」
名を呼ぶ。
「……見つける」
低く、噛みしめるように。
「次は、逃がさない」
「……なんか、視線多くない?」
市場の片隅で、レティシアがぼやいた。
「気のせいです」
エルマーが即答する。
「いや絶対増えてるでしょ」
「気のせいです」
「嘘つき」
オスカーが笑う。
「まあでも、噂になってるしね」
「えっ」
レティシアが振り返る。
「何それ」
「知らなかったの?」
「知らない」
「“黒髪の青年、神出鬼没で人助けする謎の存在”」
「なにそれ、めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど」
「人気者だよ、お嬢」
「やめて」
レティシアは顔を覆った。
「そんなつもりないんだけど」
「つもりはなくても、目立ってる」
「目立たないよう善処してるつもり」
「つもりだけでしょ」
「知ってる」
「絶対そんな顔してる」
「してない」
即答。
エルマーが小さく息を吐く。
「問題はそこではありません」
「何?」
「監察官が動きます」
間。
「……あー」
レティシアは天を仰いだ。
「それは、面倒くさい」
「でしょうね」
「すごく面倒くさい」
「知っています」
オスカーが楽しそうに笑う。
「でもさ」
肩をすくめる。
「たぶんやめないでしょ?」
レティシアは少しだけ黙って——
ため息をついた。
「……やめないわね」
「だよね」
「だな」
面倒ごとは、避けたい。
できるなら、関わりたくない。
だが。
気づけば、その中心にいる。
それが——
レティシア・フォン・アルヴェール。
そして。
王都には、すでに広がり始めていた。
名もなき青年の噂が——
また一つ、面倒ごとを呼び込んでいた。




