第37話「見える背中」
黒い影が、塀の向こうを走った。
レティシアとオスカーが同時に窓際へ寄る。
「エルマー」
オスカーの声から、完全に軽さが消える。
「北側へ抜けました」
廊下側から返る声は静かだった。
静かすぎる。
だからこそ分かる。
エルマーも、もう動いている。
レティシアは窓を開ける。
夜気が流れ込んだ。
屋敷の裏手。
木々の影。
白い塀。
その向こう。
もう、人影は見えない。
「追う?」
オスカーが問う。
レティシアは数秒だけ黙った。
普通なら、即答している。
でも今日は違った。
——帰る場所がある。
——見失わない。
言葉が残っている。
面倒なくらいに。
「……お嬢?」
オスカーが少しだけ眉を寄せる。
レティシアは、小さく舌打ちした。
「ほんと、面倒」
「誰が?」
「全員」
オスカーが吹き出す。
「雑」
「あなたたちのせいで、ちょっと考えるようになったじゃない」
「それ、良いことじゃん」
「悪いことよ。動きづらい」
「人はそれを“ブレーキ”って呼ぶんだよ」
「要らない機能ね」
「危険思想〜」
軽口。
でも、その空気のまま、オスカーは窓の外を見ている。
笑っていても、目は鋭い。
「……で?」
静かに問う。
「どうするの」
レティシアは視線を落とした。
床。
散らかったクッション。
脱ぎ捨てた靴。
机の上のウィッグ。
帰る場所。
帰る前提。
「……行く」
やっぱり、そうなる。
自分でも分かっていた。
オスカーは、怒らなかった。
呆れもしない。
ただ、小さく息を吐く。
「うん」
それだけ。
レティシアは少し眉を寄せた。
「止めないの」
「止まらないでしょ」
「まあ」
「じゃあ、俺が横にいる」
あまりにも自然に言うから。
レティシアは、一瞬だけ返せなかった。
オスカーは続ける。
「一人で消えられる方が困る」
その言い方が、
妙に双子らしかった。
縛らない。
閉じ込めない。
でも、一人にはしない。
「……過保護」
「今さら?」
「否定できないの腹立つ」
オスカーが笑う。
それから、机の上の黒髪ウィッグをひらひら揺らした。
「これ、付ける?」
「当たり前でしょ」
「いや、お嬢のままでも行けそうだなって」
「行けるわけないでしょうが」
「でも最近、“令嬢モード”でも危なさ隠れてないよ?」
レティシアの動きが止まる。
オスカーは、また見ている。
見ているけど、責めない。
「ユリウス殿、かなり気づいてるよね」
静かな声だった。
レティシアは鏡を見る。
銀灰の髪。
緩んだドレス。
令嬢の顔。
でも、その奥。
目だけが、“レオ”だった。
「……気づいてるでしょうね」
「怖くない?」
レティシアは少し考えた。
怖い。
でも。
「怖いけど」
鏡越しにオスカーを見る。
「嫌じゃないのよね」
オスカーが少しだけ目を細めた。
「へえ」
「だってあの人、暴こうとしてこないもの」
「観察はしてるけどね」
「監察官だし」
「やだねぇ」
「ほんとに」
でも。
レティシアは少しだけ笑う。
「“帰る場所がある”は、ちょっとずるかった」
オスカーが、そこで初めて少しだけ黙った。
「……だよね」
軽く返したくせに。
その声は、少し柔らかかった。
たぶんオスカーも、
あの言葉が刺さっている。
自分たちが、
レティシアの帰る場所側だと言われたから。
その時。
廊下側から、低い声がした。
「準備は終わったか」
エルマーだった。
オスカーが振り返る。
「はや」
「お前が遅い」
エルマーが部屋へ入ってくる。
視線が一瞬、
レティシアを見る。
半分ほど令嬢。
半分ほどレオ。
その状態を確認して、
エルマーは静かに息を吐いた。
「やはり行くんですね」
「止める?」
「止まりませんよね」
即答だった。
レティシアは少しだけ笑った。
「でしょうね」
エルマーは机の上へ小袋を置く。
「煙玉」
「用意良すぎない?」
「お嬢ですから」
「便利な言葉ね、それ」
「事実です」
オスカーが笑いながら壁へ寄りかかる。
「ねえエルマー」
「なんです」
「お嬢、ちょっと変わったよね」
レティシアが嫌そうな顔をした。
「本人の前で言う?」
「言う」
オスカーは笑う。
「前より、“戻る”こと考えるようになった」
静かだった。
レティシアは返せない。
エルマーは数秒だけ黙る。
それから。
「……良い変化です」
小さく言った。
レティシアは視線を逸らした。
なんだか今日は、
みんなそういうことばかり言う。
帰る場所。
戻る。
見失わない。
面倒くさい。
でも。
嫌ではないのが、もっと面倒だった。
「お嬢」
エルマーが静かに呼ぶ。
「なに」
「今回は、本当に見える範囲でお願いします」
レティシアは少しだけ目を丸くした。
エルマーは基本、
感情を言葉にしない。
だから分かる。
これは、
かなり譲歩している。
「……努力する」
「それ、お嬢の場合、信用値低いんですよね」
オスカーが即座に言った。
「うるさい」
その瞬間だった。
遠くで。
——爆発音。
三人の空気が、一瞬で切り替わる。
オスカーの笑みが消える。
エルマーの目が鋭くなる。
レティシアの視線が窓へ向く。
北側。
「……始まったわね」
レティシアが低く言った。
その目はもう、
公爵令嬢のものではなかった。




