第36話「見失わない」
扉が閉まる。
レティシアは、自室へ入った瞬間に靴を脱ぎ捨てた。
「……っっっっっっ面倒……!」
ベッドへ突っ伏す。
重い。
ドレスが重い。
空気が重い。
ユリウスの言葉が重い。
——帰る場所がある。
「だから何よ……」
枕へ顔を埋めたまま呟く。
帰る場所があるから無茶できない?
そんなの。
そんなの——
「逆に、帰るために行くに決まってるじゃない……」
小さく息を吐く。
数秒だけ。
本当に数秒だけ、目を閉じる。
静かだった。
ここは、自室だ。
誰にも見られない。
床に転がっても怒られない。
クッションが散らかっていても、最終的にはエルマーが片付ける。
勝手に菓子を持ち込んでも、オスカーが食べる。
ルシアンは黙って本を置いていく。
母は何も言わずに増えたクッションを見逃す。
父はたぶん気づいていない。
帰る場所。
「……ほんと、面倒な言い方する」
ユリウスの顔を思い出し、レティシアは眉を寄せた。
あの男はずるい。
断定しない。
暴かない。
追い詰めない。
そのくせ、気づけば逃げ道だけ削っている。
「監察官向いてるわね……」
他人事のように呟きながら、レティシアは起き上がった。
そして。
迷いなく、髪飾りを外す。
銀灰の髪が落ちる。
重い装飾を外し。
首元を緩め。
令嬢の呼吸を脱いでいく。
鏡の前へ立つ。
そこに映るのは、“完璧な公爵令嬢”ではない。
もっと、面倒ごとの中心へ向かう顔だ。
「さて」
小さく笑う。
「レオ、出番よ」
その時だった。
こんこん。
扉が叩かれる。
レティシアが固まる。
「……誰」
「俺」
オスカーだった。
レティシアは数秒沈黙した。
「……何の用?」
「お嬢が“休む”って言ったから、様子見に来た」
「信用ないわね」
「あるよ?」
即答だった。
「だから来た」
嫌な言い方だった。
レティシアは舌打ちしたくなる。
双子はこういう時、本当に面倒くさい。
「入るよ」
「待ちなさい」
慌てて羽織を掴む。
オスカーは返事を待たず、するりと部屋へ入ってきた。
そして。
数秒、止まった。
レティシアは鏡の前に立っている。
半分ほど解かれた銀灰の髪。
外しかけの装飾。
緩めたドレス。
そして机の上には——
黒髪のウィッグ。
沈黙。
オスカーが、ゆっくり瞬きをした。
「……うわ」
「何よ」
「いや」
オスカーが笑う。
「ほんとに行く気満々じゃん」
「だから休むって言ったでしょ」
「令嬢を、ね?」
「そう」
オスカーは吹き出した。
肩を震わせながら笑う。
「屁理屈〜」
「うるさい」
「でも好き」
「気持ち悪い」
「酷くない?」
軽口。
いつもの距離感。
でも、オスカーの目は笑いきっていなかった。
レティシアはそれに気づく。
気づくから、少しだけ言葉が止まる。
オスカーは部屋を見回した。
それから、静かに黒髪のウィッグを手に取る。
「……一昨日さ」
「なに」
「本気で見失ったんだよね」
空気が変わる。
レティシアは返せない。
オスカーは軽い声のままだった。
軽いまま。
でも、だからこそ分かる。
これは、本気の声だ。
「お嬢、平気で消えるじゃん」
「消えてないわよ」
「消えるよ」
即答だった。
「気づいたら、危ない方にいる」
レティシアは黙る。
オスカーは続ける。
「俺たちさ、“お嬢は無茶する”前提で動いてるんだよね」
「でしょうね」
「でも昨日、一瞬だけ、本当に分かんなくなった」
一拍。
「どこにいるか」
静かだった。
責める声ではない。
怒ってもいない。
ただ、少しだけ怖かったのだと分かる声だった。
レティシアは視線を逸らした。
「……ごめん」
「うん」
オスカーはあっさり頷く。
「だから今回は、ちゃんと見える範囲で無茶して」
「無茶前提なの?」
「お嬢だし」
「失礼ね」
「褒めてる」
「だから褒め方を学びなさい」
「シャルにも言ってた」
「あなた本当に余計なこと覚えてるわね」
オスカーが笑う。
少しだけ。
今度はちゃんと、いつもの笑い方だった。
「で?」
彼はウィッグをひらひらさせる。
「今回のレオは、どこ行くの?」
レティシアは数秒黙った。
それから、小さく息を吐く。
「北側」
オスカーの目が細くなる。
「やっぱり」
「逃走路になるなら、先回りできる」
「危険地帯だけど」
「だから行くの」
オスカーは少しだけ考える。
それから。
「分かった」
あっさり言った。
レティシアが眉を寄せる。
「止めないの」
「止めても行くでしょ」
「まあ」
「じゃあ、止める意味ない」
オスカーは机へ腰掛ける。
「その代わり」
「なに」
「今回は、俺も行く」
レティシアが嫌そうな顔をした。
「なんでよ」
「見失わないため」
「過保護」
「知ってる」
オスカーは笑う。
「でも、お嬢って放っとくと帰ってこない顔する時あるから」
その言葉に。
レティシアの動きが、一瞬だけ止まった。
オスカーは見逃さない。
でも、追及もしない。
ただ、軽い声で続ける。
「だから、“帰る場所”側としては困るんだよね」
ユリウスの言葉が、また頭をよぎる。
帰る場所。
レティシアは、小さく顔をしかめた。
「……今日みんなして、そのワード好きね」
「だって事実だし」
「面倒」
「うん」
オスカーは笑う。
「でも、お嬢がちゃんと帰ってくるなら、何回でも言うよ」
その時だった。
廊下側から、もう一つ声がした。
「オスカー」
エルマーだった。
オスカーが顔を上げる。
「ん?」
「窓の外」
空気が変わる。
レティシアとオスカーが同時に窓を見る。
外。
屋敷の塀の向こう。
ほんの一瞬だけ。
黒い影が走った。




