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干物系チャラ男男装令嬢は、面倒ごとの中心でため息をつく  作者: 織村蜜柑


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第35話「帰る場所」

庭園から、甘さが消えていた。

焼き菓子の香りも、紅茶の湯気も、陽射しの穏やかさも、そこにあることは変わらない。

けれど、空気の温度だけが違う。


王都騎士団の伝令は、片膝をついたまま報告を続けていた。

「現在確認されている騒動は三件です。西区南側で小規模火災、西通りで荷馬車の横転を発端とした群衆の混乱、北側倉庫街で物資襲撃」

「同時刻か」

カイゼルが短く問う。

「ほぼ同時刻です」

伝令が答える。

「いずれも初動は局地的でしたが、周辺の人流が重なり、対応が遅れています」

「……わざとだね」

オスカーの声から、いつもの軽さが消えていた。

笑っているようで、笑っていない。

「火災で人を寄せて、荷馬車で道を詰まらせて、倉庫街で物資を動かす」


エルマーが静かに地図を広げる。

誰が持ってきたのか分からないほど自然に、机の上へ西区の簡易地図が置かれていた。

こういう時、エルマーは早い。

動作に無駄がない。

レティシアは、黙ったまま地図を見る。

火災。

群衆。

物資襲撃。

三つとも派手だ。

けれど、派手すぎる。

「本命は、襲撃そのものではありませんね」

エルマーが言った。

「同感です」

ユリウスが頷く。

「物資を奪いたいだけなら、騒ぎを三つも起こす必要はありません」

「じゃあ、何が目的?」

オスカーが問う。

ユリウスは地図の一点を指した。

「人を散らすこと」

一拍。

「そして、見ることです」

「見る?」

カイゼルの目が細くなる。

「誰が、どこへ、どの順で動くか」

ユリウスの声は静かだった。

「昨日の中央区と同じです。騒動そのものより、反応を測っている」

その言葉に、庭園の空気がさらに重くなる。


反応を見る。

誰が動くか。

どこへ向かうか。

誰が止めるか。


レティシアは、無意識に指先を止めていた。

昨日もそうだった。

全部は助けられない。

だから選んだ。

でも、選んだこと自体を見られていたのだとしたら。

「嫌な趣味ですわね」

レティシアは、完璧な令嬢の微笑みで言った。

「街を盤面に見立てるなんて」

「そうですね」

ユリウスが静かに返す。

「ですが、盤面に見立てているのなら、駒の動きも見ています」

視線が、一瞬だけレティシアへ向いた。

ほんの一瞬。

だが、拾わずにはいられない一瞬だった。


レティシアは微笑みを崩さない。

「監察官補佐様は、何でも見たがるのですね」

「仕事ですので」

「嫌な仕事ですわ」

「よく言われます」

「でしょうね」

オスカーがぼそりと言う。

ユリウスは軽く笑った。


だが、すぐに地図へ視線を戻す。

「騎士団は現在、火災と群衆整理に人員を取られています。倉庫街へ向かえる数は限られる」

「誘導されているな」

カイゼルが低く言った。

「ええ」

エルマーが頷く。

「本来なら、倉庫街を最優先で押さえるべきです。ですが、火災と群衆を放置すれば被害が広がる」

「助ける順番を選ばせる」

レティシアの口から、静かに言葉が落ちた。

誰も、すぐには返さなかった。

その声が、あまりに冷静だったからだ。

シャルロットの前で見せる柔らかな令嬢の声ではない。

社交界で浮かべる優雅な声とも違う。

もっと奥。

状況を切り分け、判断する者の声だった。

ユリウスが、ゆっくり顔を上げる。

「そうです」

彼は静かに言った。

「だからこそ、厄介です」


全部は無理。


火災に向かえば、倉庫街が空く。

倉庫街へ向かえば、群衆が詰まる。

群衆を捌けば、火の手が広がる。

誰かが作った騒動なら、誰かが選ばされる。

その選択を、誰かが見ている。


「……性格が悪いわ」

「お嬢が言うと実感あるね」

オスカーが軽く言った。

レティシアは顔を上げる。

「どういう意味」

「お嬢、昔からそういう“嫌な作戦”見抜くの得意じゃん」

「失礼ね」

「褒めてる」

「褒め方を学びなさい」

「シャルにも言ってたね、それ」

「あなたも対象よ」

空気が、ほんの少しだけ緩む。

だが、戻りきらない。

戻してはいけない空気だった。


カイゼルが伝令へ問う。

「西区の避難誘導は誰が指揮している」

「第三分隊です」

「火災現場は」

「現地の消防隊と騎士団が対応中です」

「倉庫街は?」

「まだ十分な人員が向かえていません」

オスカーが地図を覗き込む。

「倉庫街の北側、抜け道多いね」

「ええ」

エルマーが頷く。

「馬車道より、裏道の方が多い。物資を本当に奪うなら、逃走経路としては悪くありません」

「でも、騒ぎが派手すぎる」

「そうです」

ユリウスが言う。

「本命が物資なら、静かにやる。派手にする理由があるとすれば」

「別の何かを動かしたい」

レティシアが言った。

ユリウスの目が、少しだけ細くなった。

「……ええ」

「例えば、人」

レティシアは地図から目を離さない。

「騎士団を散らす。監察官を動かす。王族を動かす」

一拍。

「……人の動きを見たいなら、騒ぎそのものより、その後の反応を見る方が効率的ですもの」

ユリウスは無言だった。

カイゼルも。

エルマーも、オスカーも。

今の言葉は、公爵令嬢が何気なく口にするには鋭すぎる。

だが、レティシアは逃げなかった。

「……という話を、本で読んだことがありますわ」

ユリウスが、小さく笑った。

「便利ですね、本は」

「そうですわね」

「よく使われる言い訳です」

「便利ですもの」

ユリウスが小さく息を吐く。

笑ったようにも見えた。

「レティシア様は、面白い方ですね」

「よく言われますわ」

「でしょうね」

オスカーが小声で言った。

「あなたは少し黙って」

「はいはい」


その時、庭園の入口側に控えていたルシアンが、静かに口を開いた。

「姉上」

レティシアが振り返る。

いつの間に来ていたのか。

ルシアンは、白い庭園の奥に立っていた。

柔らかい表情。

穏やかな声。

けれど、その目だけは少し冷えている。

「ルー」

「西区の件、聞きました」

「耳が早いわね」

「監察官補佐様と騎士団が来て、庭園の空気が変われば、誰でも分かります」

その言い方は静かだった。

だが、少し棘がある。

ルシアンはユリウスを見る。

ユリウスもまた、穏やかに視線を返した。

「ルシアン様」

「お久しぶりです、ユリウス様」

礼儀正しい。

だが、距離がある。


ルシアンはレティシアの後ろに立つと、地図へ目を落とした。

「火災、群衆、物資襲撃」

「ええ」

エルマーが短く答える。

ルシアンは数秒だけ地図を見る。

それから、静かに言った。

「北側ですね」

ルシアンが静かに言った。

空気が止まる。

「理由は?」

ユリウスが問う。

「三つの騒動で、人の流れが南と中央へ寄っています」

ルシアンは地図へ視線を落としたまま続けた。

一拍。

「逃げ道を作っているように見えます」

ユリウスの目が、わずかに細くなる。

「……鋭いですね」

「本で読んだだけです」

即答だった。

レティシアは思わず弟を見る。

その返し方が、自分とあまりに似ていたからだ。

オスカーが肩を震わせる。

「姉弟だねえ」

「何ですか」

ほぼ同時だった。

オスカーが吹き出す。

「いや、うん。何でもない」

「何が」

レティシアとルシアンの声が、同時に重なった。

完全に同じ温度だった。

オスカーが吹き出す。

「いや、うん。何でもない」

エルマーが淡々と言う。

「似ていますね」

「似てない」

「似ていません」

また同時だった。

カイゼルが小さく笑う。

ほんの一瞬だけ、緊張が緩む。


けれど、ルシアンはすぐにレティシアを見る。

「姉上」

ルシアンが静かに呼ぶ。

「なに」

「無理をしないでください」

柔らかい声だった。

だが、その奥には静かな湿度がある。

「姉上は、昔から自分を後回しにします」

レティシアは返せない。

ルシアンは少しだけ目を伏せた。

「僕は、それが嫌いです」

責める声ではない。

ただ、静かに絡みつく。

逃げ場をなくすような言葉だった。

「ルー」

「分かっています」

ルシアンは微笑む。

「姉上が、こういう時に全部抱え込もうとすることくらい」

レティシアは返せない。

ルシアンは続けた。

「でも、分かっていることと、見送れることは違います」

静かな声だった。

刺すように強いわけではない。

責めているわけでもない。

ただ、濡れた糸のように絡む。

「姉上は、昔からそうやって、何でもない顔をなさる」

「……ルシアン」

「ですから、せめて私くらいは、心配してもいいでしょう」

レティシアは黙る。

オスカーが小さく口笛を吹きかけて、エルマーに睨まれて黙った。

ルシアンは、少しだけ目を伏せる。

「僕は、姉上が誰かを助けるところが嫌いなわけではありません」

一拍。

「でも、姉上が自分を数に入れないところは嫌いです」

その言葉は、庭園に静かに落ちた。

レティシアは、珍しく何も言えなかった。

ルシアンは柔らかい。

弟らしい。

けれど、その柔らかさは時々、逃げ場をなくす。

アレクシスのように道を塞ぐのではない。

カイゼルのように休ませるのでもない。

ただ、情の湿度で足首を掴む。

行かないで、と言われるより。

そういうところが嫌いだ、と言われる方が、ずっと動きにくい。


「……ルー」

「はい」

「そういう言い方は、ずるい」

「知っています」

即答だった。

「あなたね」

「姉上には、これくらいでないと届きません」

オスカーが小声で言った。

「ルー、強くなったなあ」

「昔からです」

エルマーが静かに返す。

「お嬢に対してだけ、妙に芯が強い」

ルシアンは何も言わない。

否定もしない。

その沈黙が、答えだった。


カイゼルが静かに口を開く。

「レティー」

レティシアは視線を向ける。

カイゼルの顔には、先ほどの恋愛めいた柔らかさはない。

王子としての冷静さ。

そして、それでも滲む心配。

「今回は、こちらが動く」

カイゼルが低く言う。

「君は休め」

レティシアは、少しだけ目を伏せた。

休め。

頑張るな。

力を抜け。

カイゼルは、いつもそう言う。

「……カイ」

「なんだ」

「それ、無理だと思う」

オスカーが小さく笑った。

「だよねえ」

エルマーが静かに息を吐く。

「でしょうね」


カイゼルの目が、わずかに細くなる。

「理由は」

「西区は人が多い」

レティシアは地図を見る。

「火災も群衆も物資襲撃も、全部放置できない。でも全部には行けない」

「騎士団がいる」

「足りないわ」

「監察官も動く」

「それでも足りない」

「……君は、どうしたい」

カイゼルの声は静かだった。

レティシアは、少しだけ黙った。

足りるわけではない。

誰か一人で全部が変わるなど、思っていない。

そんな思い上がりは、とっくに捨てた。

でも。

「見えている穴を、見なかったことにはできない」

沈黙が落ちる。

ユリウスだけが、静かにレティシアを見ていた。

観察者の目。

だが、その奥には別の色が混じっている。

「それが」

ユリウスが口を開く。

「彼の危うさなのでしょうね」

空気が張る。

レティシアは、完璧な微笑みで返した。

「誰のことかしら」

「さあ」

ユリウスは穏やかに笑う。

「ですが、“見えている穴を見なかったことにできない人間”は、いつか穴へ落ちる」

「なら、落ちないようにすればいいだけですわ」

「一人では難しい」

レティシアは黙る。

ユリウスは庭園にいる者たちを見る。

カイゼル。

双子。

ルシアン。

そして、レティシア。

「だから、安心しました」

「何がですの」

ユリウスは、ほんの少しだけ声を柔らかくした。

「彼には、帰る場所がある」

止まった。

庭園の空気が、わずかに変わる。

オスカーが笑わない。

エルマーは静かに目を伏せる。

カイゼルは何も言わない。

ルシアンは意味を測るようにユリウスを見る。

レティシアだけが、少し遅れて瞬きをした。

「帰る場所?」

「ええ」

ユリウスは頷く。

「帰る場所がある人間は、壊れきれない」

一拍。

「止まる理由ができるからです」

その言葉は、思ったより柔らかかった。

監察官補佐の分析ではなく。

人間を見る者の言葉だった。

レティシアは、なぜかすぐに返せなかった。


帰る場所。

アルヴェール公爵家。

自室。

床に転がれる場所。

菓子を隠してもエルマーに見つかる場所。

オスカーが笑いながら窓辺に座る場所。

ルシアンが静かに本を持ってくる場所。

両親が何も見なかった顔で奇行を受け入れる場所。

そして、昨日。

カイゼルの滞在先で、気づけば力が抜けてしまった場所。

帰る場所は、一つではないのかもしれない。

そう思ってしまった瞬間、レティシアは少しだけ困った。

「……そういうもの?」

ぽつりと零れる。

ユリウスは頷いた。

「少なくとも、一人で壊れるよりは、ずっといい」


風が吹いた。

白いテーブルクロスが、わずかに揺れる。

誰もすぐには話さなかった。

レティシアは居心地が悪くなり、視線を逸らす。

「……見ないでくれる?」

レティシアが小さく言う。

「無理ですね」

エルマーが即答した。

「お嬢は昔から、一人で抱え込みますから」

「言い方」

「事実です」

オスカーが笑う。

「しかも隠すの上手いしね」

「褒めてないわよね?」

「半分くらいは」

「無理はしないでください」

ルシアンが静かに言う。

「約束は?」

「努力はする」

「姉上」

「……分かったわよ」

ルシアンが、ようやく少しだけ表情を緩めた。


レティシアは地図を見る。

火災。

群衆。

倉庫街。

人の流れ。

塞がれた道。

守るべき場所。

選ばなければいけないもの。

そして、選ばなかった時に失われるかもしれないもの。

「……放っておくには、状況が悪すぎますわね」

「嘘だね」

オスカーが即座に言った。

「顔がもう決めてる」

「オスカー」

「うん?」

「余計な観察力を発揮しないで」

「ユリウス殿に感化されたかも」

「やめなさい」

ユリウスが小さく笑った。

「良い傾向です」

「良くありませんわ」

レティシアは即答した。

エルマーが地図を指す。

「アルヴェール家として動くなら、北側の情報は先に押さえるべきです」

「エルマー」

「止めても無駄でしょう」

レティシアは黙る。

エルマーは淡々としている。

だが、彼の声音はいつもより低い。

「なら、最短で終わらせます」

その言葉に、レティシアは一瞬だけ目を伏せた。

この距離感だ。

止めるのではなく、整える。

叱るのではなく、回収できるように道を作る。

エルマーは昔からそうだった。

オスカーも、笑いながら同じことをする。

双子は、レティシアを自由にさせているようで、決して一人にはしない。


「お嬢」

オスカーが軽い声で呼ぶ。

「なに」

「無理するなら、ちゃんと俺たちに頼ってね」

「無理しない」

「嘘」

「あなたたち、今日は厳しくない?」

「昨日の今日だからね」

オスカーは笑う。

けれど、目の奥は鋭い。

「今度は、一人で抱え込ませません」

その一言で、レティシアは口を閉じた。

普段なら茶化して返せる。

でも、返せなかった。

オスカーの声が軽くなかったからだ。

カイゼルも、その声を聞いていた。

ユリウスも。


ルシアンは、レティシアの背中へ視線を落とす。

「姉上」

「なに」

「僕は、止めました」

「うん」

「それでも、姉上が何かを決めるなら」

ルシアンは少しだけ目を伏せる。

「どうか、ご自分を一番最後に置かないでください」

湿度のある声だった。

柔らかい。

でも、逃げられない。

「必ず」

レティシアは、少し困ったように笑った。

「……努力する」

「約束してください」

「ルー」

「約束です」

静かな圧。

弟なのに。

弟だからこそ、ずるい。

レティシアは小さくため息をついた。

「分かった」

ルシアンは、ようやく少しだけ表情を緩めた。

「はい」


伝令が、緊張したまま口を開く。

「ご指示を」

ユリウスがカイゼルを見る。

カイゼルは短く判断した。

「騎士団は火災と群衆整理を優先しろ。倉庫街には、足の速い者だけを回せ。北側の抜け道は塞げる範囲でいい」

「承知しました」

「監察側は人の流れを追う」

ユリウスが言う。

「特に、騒動前から北側へ向かっていた者を」

「はい」

エルマーが静かに続ける。

「アルヴェール家からも、情報確認に人を出します。表向きは、被害確認と支援準備です」

「助かる」

カイゼルが頷く。

レティシアは黙って聞いていた。


表向き。

支援準備。

情報確認。

その言葉が、使える道を作っていく。

ユリウスがそれを見て、ほんの少しだけ笑った。

「皆様、動きが早い」

「慣れていますので」

エルマーが淡々と返す。

「何に、とは聞かない方がよさそうですね」

「その方が賢明です」

オスカーが軽く言う。

「監察官殿、たまには観察しない選択も大事だよ」

「検討します」

「しないやつだ」

その時、レティシアが静かに立ち上がった。

全員の視線が向く。

彼女は、完璧な令嬢の微笑みで言った。

「では、私は少し休みますわ」

沈黙。

オスカーが目を細める。

エルマーが無言で見つめる。

カイゼルは、低い声で言った。

「本当に?」

「ええ」

完璧だった。

完璧すぎた。

だから、誰も信じなかった。

ユリウスですら、薄く笑った。

「では、お大事に」

「ありがとうございます」

優雅に礼をする。

そして、庭園を後にした。


背筋を伸ばし。

歩幅を乱さず。

どこまでも公爵令嬢らしく。

その背中を、全員が見送る。

彼女の姿が建物の中へ消えたあと。

オスカーがぽつりと言った。

「絶対休まないよね」

「ええ」

エルマーが即答する。

「お嬢ですから」

カイゼルが低く息を吐いた。

「……困った人だ」

「今さらです」

オスカーが笑う。

「俺たち、昔から振り回されてるんで」

ユリウスの視線が、わずかに動いた。

「昔から?」

「あ」

オスカーが固まる。

エルマーが静かに見る。

「オスカー」

「ごめん」

即答だった。

カイゼルが小さく笑う。

「相変わらずだな」

ユリウスは何も言わない。

だが、確実に拾った。

観察者の目が、庭園に残る。


一方で。

屋敷の廊下を歩くレティシアは、誰もいない角を曲がった瞬間、完璧な微笑みを消した。

「……面倒くさい」

低く呟く。

その声は、令嬢のものではなかった。

自室へ向かう足取りが、少しだけ速くなる。

休む。

確かに、休むと言った。

だからまず、令嬢の顔を休ませる。

髪を外す。

装飾を外す。

重い布を脱ぐ。

そして。

西区へ向かうための、一番動きやすい顔に変える。

扉を開ける直前、レティシアはふと足を止めた。

——レオには、帰る場所がある。

ユリウスの声が、まだ耳に残っている。

帰る場所。

壊れる前に、戻る場所。

レティシアは小さく息を吐いた。

「……帰る前提なら、まあ」

少しだけ口元を上げる。

「行ってもいいわよね」

自分でも、屁理屈だと思った。

でも、面倒ごとの中心に立つ人間には、たまに屁理屈も必要なのである。

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