第33話「優しいだけでは」
翌日。
アルヴェール公爵家の庭園は、腹立たしいほど平和だった。
陽射しは穏やかで、風は柔らかく、白いテーブルの上には紅茶と焼き菓子が並んでいる。
そして、その中央には——昨日カイゼルから届いた菓子箱が、当然のような顔で置かれていた。
「……平和」
レティシアは椅子に沈み込みながら、ぼんやり呟いた。
膝の上には薄手の膝掛け。
肩には、エルマーが勝手にかけた外套。
完全に療養中の令嬢である。
ただし本人は、療養というより、ただ省エネで座っているだけだった。
「平和ですね」
エルマーが静かに紅茶を注ぐ。
「ただし、その菓子は四つ目です」
「まだ四つ」
「もう四つ、です」
「甘味は別腹でしょ」
「その理論で何度体調を崩しましたか」
「数えてない」
「私は数えています」
怖い。
レティシアはそっと視線を逸らした。
正面では、オスカーが肩を震わせて笑っている。
「お嬢、昨日から顔ゆるいよね」
「は?」
「機嫌いいじゃん」
「普通」
「いや、普通より三割くらい飼い慣らされてる」
「言い方」
「餌付け効果ってすごいなって」
「されてない」
「菓子食べながら言う?」
レティシアは手元の焼き菓子を見た。
食べかけだった。
負けた気がした。
「……これは別」
「何が?」
「菓子に罪はない」
「出た、お嬢の都合いい倫理観」
「うるさい」
オスカーが笑う。
エルマーは何も言わず、レティシアの皿から五つ目に手が伸びる前に、菓子箱の蓋を半分閉じた。
「ちょっと」
「休養中です」
「甘味で心を休めてるの」
「胃は休んでいません」
正論が過ぎる。
レティシアが眉を寄せた、その時だった。
「レティシア様!」
庭園の入口から、明るい声が飛んできた。
シャルロットである。
今日も勢いが強い。
「また来た」
「来ますわ!」
即答だった。
「どうしてそんなに元気なの」
「こんな面白……いえ、貴重な機会、なかなかありませんもの!」
「今、面白いって言いかけたわね」
「気のせいですわ!」
絶対に気のせいではない。
シャルロットは楽しそうに席へ近づき、そしてテーブルの上の菓子箱を見て固まった。
沈黙。
それから、ゆっくりレティシアを見る。
「……あの後、さらに届きましたのね」
「いろんな店から」
オスカーが笑いながら言う。
「殿下、遠慮ゼロだったよ」
「隠す気がありませんわ……」
シャルロットは胸元で両手を握った。
「これはもう、ほぼ宣戦布告では?」
「誰に」
レティシアが真顔で聞く。
シャルロットが固まった。
オスカーが吹き出す。
エルマーは静かに紅茶を置いた。
「レティシア様」
シャルロットは真剣な顔で身を乗り出した。
「カイゼル殿下は、なぜ“あなたにだけ”菓子を送ると思います?」
「私が疲れてたから?」
「そこから動きませんのね!?」
「他に何があるの」
「ありますわ! 山ほど!」
「山ほどは面倒くさい」
「恋愛感情を面倒くさがらないでくださいませ!」
レティシアは一瞬だけ止まった。
それから、心底不可解そうに首を傾げる。
「恋愛?」
「そうですわ」
「誰の?」
「カイゼル殿下のですわ!」
庭園に沈黙が落ちた。
オスカーが口元を押さえる。
エルマーは目を伏せる。
レティシアだけが、本気で理解できていない顔をしていた。
「……カイは昔から優しいでしょ」
「その“昔から優しい”が一番危険ですわ!」
シャルロットが両手を握りしめる。
「昔から知っているから特別が普通に見えているだけです!」
「普通じゃないの?」
「普通ではありません!」
「そうなの?」
「そこからですの!?」
オスカーがとうとう耐えきれず笑い声を漏らした。
「お嬢さあ」
「なに」
「カイゼル殿下、他の人にはあそこまでしないと思うよ」
レティシアは止まった。
「……そうなの?」
「そこから?」
「だって、カイだし」
「それ、だいぶ特別枠の言い方だよ」
「違う」
「何が?」
「何かが」
「雑」
レティシアは眉を寄せた。
納得できない。
カイゼルは昔から優しかった。
避暑地で会っていた頃から、迷子になれば迎えに来たし、疲れて座り込めば水を渡したし、リオンと悪ノリして怒られた時も、最終的には庇ってくれた。
だから、それがカイゼルなのだ。
そういう人なのだ。
——そう思っていた。
「……優しいだけでしょ」
ぽつりと零した瞬間。
庭園の入口で、使用人の声がした。
「失礼いたします。カイゼル殿下がお見えです」
完全停止。
レティシアの手が止まる。
シャルロットが息を呑む。
オスカーが、声を殺して笑った。
「うわ、追撃来た」
「タイミングが完璧すぎますわ……!」
「帰ってもらって」
「お嬢」
エルマーが静かに言った。
「王子殿下を玄関先で追い返す令嬢になりたいのですか」
「なりたくはない」
「では、お通しします」
「判断が早い」
「あなたが遅いのです」
正しい。
数秒後、カイゼルが庭園に姿を現した。
淡い金髪が陽を受けて柔らかく光る。
穏やかな表情。
落ち着いた歩調。
けれど、視線は真っ先にレティシアへ向いた。
「レティー」
その呼び方だけで、シャルロットが小さく肩を震わせた。
「肩はどう?」
「エルマーが応急処置してくれたから大丈夫」
「痛む?」
「少し」
「嘘だな」
即答だった。
レティシアが固まる。
「なんで分かるの」
「君は痛い時ほど、平気な顔をする」
静かな声だった。
責めるでもなく、咎めるでもなく。
ただ、知っている、という声。
レティシアは少しだけ居心地が悪くなり、視線を逸らした。
「……大したことない」
「それも嘘だ」
「カイ」
「無理をするなと言っている」
低い声。
庭園の空気が、ほんの少しだけ変わった。
オスカーが笑うのをやめる。
エルマーは黙って紅茶を置いた。
シャルロットは両手を口元に当て、完全に観客の顔をしている。
カイゼルはテーブルの上を見る。
半分以上減った菓子箱。
空の皿。
そして、レティシアの指先に残る焼き菓子の欠片。
「……減るのが早いな」
「お嬢が食べました」
エルマーが即答した。
「報告が早い」
「管理対象ですので」
「私は菓子まで管理される存在なの?」
「はい」
「即答しないで」
カイゼルが小さく笑った。
「口に合ったなら良かった」
その声があまりにも自然で。
レティシアは、また少しだけ居心地が悪くなった。
「……別に」
「別に?」
「普通」
「そうか」
カイゼルは穏やかに微笑む。
「では、また送る」
「普通って言ったでしょ」
「嫌いとは言わなかった」
「そういうところ」
「どういうところだ?」
「……分からない」
「お嬢、処理落ちしてる」
オスカーが小声で言った。
レティシアは即座に睨む。
「してない」
「してるよね」
「していません」
「耳赤いけど」
「暑い」
「今日は涼しいです」
エルマーが冷静に刺す。
逃げ場がない。
シャルロットはすでに震えていた。
「レティシア様が……押されていますわ……!」
「押されてない」
「押されています!」
「違う」
「違いません!」
カイゼルはそのやり取りを、少しだけ楽しそうに見ていた。
それから、ふと声を落とす。
「レティー」
名前を呼ばれただけで、レティシアの背筋がわずかに伸びた。
「なに」
「ちゃんと眠れたか?」
止まった。
風も、紅茶の湯気も、シャルロットの震えすらも、一瞬止まった気がした。
昨夜。
緊張が切れたあと、カイゼルの滞在先で、気づけば力が抜けていた。
大丈夫だと分かった瞬間、身体が勝手に休む方へ落ちた。
低い声。
大きな手。
そして——膝枕。
「っ……」
レティシアは反射的に視線を逸らした。
耳が熱い。
オスカーが小さく息を呑む。
「うわ」
「今の効いた」
「違う」
レティシアは即答した。
「何が?」
「……何かが」
「だから雑」
シャルロットが椅子から滑り落ちそうになっていた。
「レティシア様が照れてますわ……!」
「照れてない!」
「赤いです!」
「暑い!」
「涼しいです」
エルマーがまた刺した。
完全敗北だった。
カイゼルは笑わない。
ただ、静かにレティシアを見る。
「眠れたならいい」
その一言は、優しかった。
優しすぎて、レティシアは余計に困った。
「……カイは」
自分でも、なぜ聞いたのか分からない。
けれど、口から出ていた。
「昔からそういうところあるわよね」
「そういうところ?」
「優しいところ」
一瞬。
カイゼルの目が、わずかに細くなった。
穏やかな顔は変わらない。
けれど、声の温度だけが少し落ちる。
「レティー」
「なに」
「優しいだけで、男は夜中に飛び出してこない」
沈黙。
完全な。
紅茶の湯気だけが、静かに揺れた。
レティシアの思考が止まる。
シャルロットが息を呑む。
オスカーが小さく「うわ」と呟いた。
エルマーは目を伏せた。
カイゼルは、逃がさない声で続ける。
「君が危ないと聞いた」
一拍。
「だから行った」
それだけだ、とでも言うように。
けれど、その“それだけ”が重い。
真っ直ぐすぎる。
レティシアは数秒黙ったあと、ぽつりと言った。
「……重い」
オスカーが吹き出した。
「お嬢!!」
「今の流れでそれ言う!?」
「だって重いでしょ!」
レティシアは真顔で返す。
「普通、そんな即行動する!?」
「しますわ!!」
シャルロットが勢いよく立ち上がった。
「好きな相手なら!!」
言った。
空気が止まった。
シャルロット自身も固まる。
「あ」
オスカーが机に突っ伏した。
「シャル……」
「やってしまいましたわ……」
エルマーは静かに目を閉じる。
「ついに言いましたね」
レティシアだけが、まだ停止していた。
ゆっくり。
本当にゆっくり。
顔がカイゼルへ向く。
「……カイ」
「なんだ」
「今の、ほんと?」
沈黙。
カイゼルは数秒だけ黙った。
それから、小さく笑う。
「どう思う?」
「質問で返さないで」
「君もよくやる」
「今はされる側なの」
「そうだな」
穏やかに。
けれど、逃がさない声だった。
レティシアは完全に困った顔をした。
「……無理」
「何がですの」
シャルロットが聞く。
「処理能力が足りない」
オスカーが笑いすぎて声にならない。
「お嬢、完全にフリーズしてる」
「珍しいですね」
エルマーも小さく息を吐く。
ルシアンがいれば、きっと静かに姉の顔色を見ていただろう。
アレクシスがいれば、たぶん優雅に逃げ道を塞いでいただろう。
だが今、ここにいるのはカイゼルで。
彼は逃げ道を塞ぐのではなく、ただそこに立っている。
待つように。
休ませるように。
けれど、曖昧に逃がしてはくれない距離で。
それが余計に、レティシアを困らせた。
「……平和とは」
「現実逃避ですね」
エルマーが即答する。
「まだ何も言ってない」
「顔に出ています」
「出てない」
「出ています」
「出てますわ」
「出てるよ、お嬢」
三方向から刺された。
ひどい。
レティシアは深くため息をついた。
「……今日はもう何も考えたくない」
「では、休め」
カイゼルが言う。
「そういう素直な命令形やめて」
「頼めば休むのか?」
「休まない」
「なら命令にする」
「横暴」
「君相手には、これくらいでちょうどいい」
その声が低くて。
また、心臓に悪かった。
シャルロットが小さく震える。
「駄目ですわ……この空間、破壊力が……」
「何が」
「全部ですわ!」
レティシアは本気で分からない顔をした。
その時。
庭園の入口から、使用人が足早に近づいてきた。
先ほどまでの穏やかな空気とは違う。
わずかに、急いでいる。
エルマーが真っ先に気づいた。
オスカーの笑みも薄くなる。
カイゼルが視線だけを向ける。
使用人は一礼し、静かに告げた。
「失礼いたします」
一拍。
「監察官補佐、ユリウス・ヴァン・クロイツ様がお見えです」
空気が変わった。
先ほどまでの甘さが、すっと引いていく。
シャルロットが瞬きをする。
オスカーが小さく息を吐いた。
「……うわ。空気読んだのか、読んでないのか」
「読んだ上で来た可能性もあります」
エルマーが静かに言う。
「それ一番面倒なやつ」
「ええ」
カイゼルの表情も、穏やかなものから王族の顔へ戻っていた。
レティシアは、ゆっくり背筋を伸ばす。
頬の熱も、困惑も、処理落ちも。
すべて、完璧な微笑みの奥へしまい込む。
一瞬で、彼女はアルヴェール公爵令嬢に戻った。
シャルロットが、思わず息を呑む。
その切り替えは、美しかった。
少し怖いくらいに。
「お通しして」
レティシアが言う。
声は、もう揺れていない。
使用人が下がる。
庭園に、静かな緊張が落ちた。
オスカーが小さく笑う。
「お嬢、さっきまで処理落ちしてたのに」
「してない」
「してた」
「忘れなさい」
「無理」
「オスカー」
エルマーの声が低くなる。
オスカーはすぐに両手を上げた。
「はいはい、黙ります」
レティシアは紅茶を一口飲み、微笑む。
完璧に。
優雅に。
何もなかったかのように。
けれど、胸の奥にはまだ、カイゼルの声が残っていた。
——優しいだけで、男は夜中に飛び出してこない。
優しいだけではない。
では、何なのか。
考えたくない。
考えたくないのに、考えてしまう。
だからレティシアは、心の中で深くため息をついた。
面倒ごとは、外から来るものだと思っていた。
けれどどうやら。
人の心も、十分すぎるほど面倒らしい。




