(改善版)第1話: 「令嬢は塀を越え、美青年は朝の街を救う」
「返してよ……!」
少女の声が、人通りの増えた市場に響いた。
焼き立てのパンの香り。行き交う人々。
賑やかなはずのその場所で——そこだけ空気が歪んでいる。
「うるせえな。拾っただけだって言ってんだろ」
「そうそう。落とした方が悪いんじゃないの?」
二人の男が、薄く笑う。
その手には、小さな布袋。
少女——ミナの売上が入っていたものだ。
「嘘よ! それ、あたしの!」
周囲は気づいている。
だが、誰も動かない。
関われば面倒だ。
そんな空気が、場を覆っていた。
「……っ」
ミナの唇が震える。
その時だった。
「それはさすがに、格好悪いな」
静かな声が、割り込んだ。
振り返る。
そこに立っていたのは——黒髪の青年だった。
整った顔立ち。涼やかな目元。
濃紺の上着を軽く着崩し、どこか余裕を感じさせる立ち姿。
「誰だ、お前」
「通りすがり」
軽く笑う。
だが——その目は笑っていない。
「で、それ」
一歩、踏み出す。
「返してもらっていい?」
空気が変わる。
「は? 証拠でもあんのかよ」
「あるよ」
即答だった。
青年——レオは、男の袖口を指さした。
「白百合の花粉。あの子の花籠に入ってたやつ」
次に袋の口元。
「ここにも付いてる。擦れたんだろうね」
最後に足元。
「靴にも花びら。踏んだばっかりだ」
言い切る。
逃げ道は、ない。
「……チッ!」
男のひとりが舌打ちし、拳を振り上げた。
「調子に乗るな!」
——だが。
「関係なくはないよ」
その手は、届かなかった。
細い手が、正確に手首を掴んでいる。
「泣いてる子がいる」
次の瞬間。
男の身体が、崩れた。
力任せではない。
体勢を崩し、勢いを逸らし、足元を払っただけ。
それだけで——終わる。
「なっ……!?」
もう一人が飛びかかる。
半歩だけ引く。
肩を押す。
それだけで、相手は自分から倒れ込んだ。
——一瞬。
あまりにもあっけない。
「……すご」
誰かが呟いた。
レオはしゃがみ込み、袋を拾う。
「はい、これ」
ミナに差し出す。
「……あ、あった……!」
袋を抱きしめ、ミナは涙をこぼした。
「レオお兄ちゃん……!」
「遅くなった」
やわらかく笑う。
「来るって思ってくれた?」
「うん……!」
「ならよかった」
レオは立ち上がる。
そのまま背を向ける。
「じゃ、またね」
軽く手を振る。
次の瞬間には——人混みの中へ消えていた。
「またか……!」
少し遅れて駆け込んできた青年が、歯噛みする。
ユリウス・ヴァン・クロイツ。
王宮監察官補佐。
視線が、周囲を鋭く走る。
「黒髪の男はどこへ行った!」
「えっと……さっきまで……」
「もういない……」
ユリウスは拳を握る。
「……レオ」
その名を、低く呟いた。
「……また、先を越された」
——その頃。
「……暑い」
路地裏。
人気のない場所で、レオは帽子を外した。
黒髪が、するりと外れる。
現れたのは——銀灰のショートボブ。
「ほんと、面倒くさい……」
小さくぼやく。
上着を脱ぎ、軽く肩を回す。上着を脱ぐ。
帽子を外す。
黒髪が、するりと消える。
軽く肩を回した瞬間——
空気が変わった。
その空気が、ふっと変わる。
先ほどまでの“青年”は、もういない。
そこにいるのは——レティシアだった。
「おつかれさま、お嬢」
声がした。
振り向く。
そこには、双子の騎士。
エルマーとオスカー。
「回収、早いわね」
「慣れてますから」
「お嬢が消えるのも、毎回ですし」
オスカーが笑う。
「何よそれ」
「事実です」
エルマーは淡々と返す。
「で、戻りますよ」
「えっ」
「茶会に」
「今さら?」
「今さらです」
「やだ」
「戻ります」
「面倒くさい……」
レティシアはその場で項垂れた。
「もう今日の分の令嬢は終わった」
「終わっていません」
「仕事したし」
「余計に戻ってください」
「走ったし」
「知っています」
「疲れたし」
「知っています」
オスカーが吹き出す。
「お嬢、諦めましょ」
「あなた味方じゃないの?」
「味方ですよ? 面白い方の」
「最低」
レティシアは深くため息をついた。
「……ほんと、面倒くさい」
だが。
「でも」
ほんの少しだけ、笑う。
「ミナ、無事でよかった」
エルマーが目を細める。
オスカーが肩をすくめる。
——結局。
こうなる。
完璧な令嬢。
正体不明の青年。
そして——干物女。
すべて同一人物。
面倒くさいとため息をつきながら、
なぜか毎回、騒動の中心にいる。
それが——
面倒ごとの中心でため息をつく令嬢、
レティシア・フォン・アルヴェール。




