(改善版)プロローグ: 「完璧な令嬢は、静かに逸脱する」
アルヴェール公爵家の茶会は、今日も完璧だった。
庭園に並ぶ白いテーブル。整えられた花々。
選び抜かれた客人たち。
そして——その中心。
レティシア・フォン・アルヴェール。
銀灰の長い髪をなびかせ、淡い色のドレスを纏い、
優雅に微笑むその姿は、まるで一枚の絵画のようだった。
「やはり、アルヴェール公爵令嬢は格が違いますね」
「ええ。あの立ち居振る舞い……とても同年代とは思えませんわ」
賞賛は尽きない。
そのすべてを、彼女は穏やかに受け止める。
「恐れ入りますわ」
柔らかな声音。整った言葉。揺るがない所作。
——完璧だ。
誰もがそう思う。
ただひとりを除いて。
(……めんどくさい)
——その“完璧な令嬢”本人である。
笑顔は崩さない。
会話も止めない。
だが内心は、完全に別の方向を向いていた。
(長い。暑い。動きにくい)
そして。
(帰りたい)
だが帰れない。
だから——抜ける。
レティシアの視線が、ほんのわずかに動いた。
庭園の端。
人目が薄くなる場所。
そして、その先にある——高い石塀。
(……今)
決断は一瞬だった。
「失礼いたしますわ」
自然な一礼。
それだけで、誰も引き止めない。
完璧な令嬢は、完璧に場を抜ける。
数分後。
庭園の奥、石塀のそば。
「……暑い」
小さく呟く。
(ほんと、面倒くさい)
(でも——見に行かないと気が済まない)
長い髪。重いドレス。締め付けるコルセット。
見た目の完璧さと引き換えに、すべてが動きを制限してくる。
「動きにくい……」
だが、脱ぐ時間はない。
——先に、出る。
レティシアはため息をつきながら、胸元に手をやった。
指先で小さな金具を外す。
かちり、と軽い音。
次の瞬間——ドレスの装飾が、するりと外れた。
レースや飾り布が一体化していたように見えたそれは、
実際には可動式のパーツだったらしい。
見た目の華やかさを保ったまま、動きやすさを確保するための細工。
「……やっぱりこれ、便利」
ぽつりと呟く。
誰に聞かせるでもないが——
「最初から外しておけばいいのに」
塀の向こうから、呆れた声が返ってきた。
レティシアは顔も上げずに返す。
「最初から外してたら怪しまれるでしょ」
「だからって毎回ここで外す必要あります?」
「あるわよ。ここが一番人目ないもの」
言いながら、裾を軽く整える。
先ほどまでとは比べものにならないほど、動きやすい。
ようやく“いつもの状態”に近づいた。
「靴」
「……準備いいわね」
「いつものことですから」
「お嬢が“行かない選択をしない”のも、いつものことです」
短く告げる声。
塀の向こうから、すっと何かが差し出される。
軽く、足に馴染むブーツ。
レティシアはそれを受け取り、迷いなく履き替えた。
「毎回のことなので」
エルマーの声は相変わらず淡々としている。
その横で、オスカーが楽しそうに笑った。
完全に面白がっている顔だ。
「お嬢が何も考えずに飛び出すの、もう分かってますからね」
「何も考えてないわけじゃないわよ」
「“途中から考える”タイプですよね」
「否定しない」
レティシアは軽く肩を回した。
重さが消え、身体が一気に軽くなる。
「……よし」
塀に手をかける。
足場を確かめる動きに、迷いはない。
「無茶はしないでください」
「努力はする」
「信用できませんね」
「いつものことじゃない」
オスカーが吹き出す。
「それはそう」
レティシアは一気に身体を引き上げた。
ドレス姿とは思えない軽さで、石塀の上に立つ。
見下ろす先には、静かな通りと、朝の気配。
そして——自由。
レティシアは、ふっと笑った。
「やっと抜けた」
「行ってらっしゃい、お嬢」
レティシアは外套をひっかけた。
「回収は任せてください」
「お願いね」
「……戻る頃には、ちゃんと“別人”になってるから。いつも通りね」
次の瞬間。
彼女は迷いなく、外へ飛び降りた。
同じ頃。
少し離れた高台から、その光景を見ている男がいた。
「……ほう」
白金に近い金の髪が、風に揺れる。
細められた瞳は、逃げる令嬢の姿を正確に捉えていた。
——完璧な令嬢が、塀を越える。
ありえない。
だが、確かに現実だ。
「レティシア・フォン・アルヴェール……」
その名を、ゆっくりと口にする。
確かめるように。
味わうように。
「面白い」
その声は、ひどく静かだった。
「これは——逃がすには惜しいな」
男は、わずかに笑った。
この時、まだ誰も知らない。
その“逸脱”が、やがて王都を巻き込み、
多くの人間を振り回すことになることを。
そして——
彼女自身が、その中心に立ち続けることを。
面倒くさいとため息をつきながら。




