第11話「王太子、距離を詰める」
音楽が、遠い。
笑い声も、ざわめきも——すべてが薄くなる。
「こちらへ」
短い一言。
王太子アレクシスは振り返らない。
だが、その背を追うしかない。
レティシアは、完璧な微笑みのまま一礼し、歩き出した。
通されたのは、会場から少し離れた回廊。
窓から差し込む月光。
人の気配は、ない。
足音だけが、やけに響く。
(……最悪の場所)
逃げ場がない。
視線を逸らす理由も、誰もいない。
——一対一。
「緊張しているのか?」
歩いたまま、アレクシスが言う。
「まさか」
即答する。
「光栄に思っております」
「そうか」
短い返事。
嘘を指摘するでもなく、肯定するでもない。
ただ——受け流す。
回廊の端で、アレクシスが足を止めた。
振り返る。
距離は、近すぎない。
だが、逃げられる距離でもない。
「アルヴェール公爵令嬢」
「はい」
「君は、いつもそうやっているのか」
「何を、でしょう」
「完璧に振る舞うことだ」
一拍。
レティシアは微笑む。
「それが、淑女としての役目ですもの」
「役目、か」
アレクシスはわずかに首を傾けた。
「では——」
視線が、まっすぐ刺さる。
「その役目は、どこまでが本物だ?」
——来た。
レティシアは、ほんのわずかに呼吸を整える。
「すべて本物ですわ」
「そうか」
即答だった。
だが、その声に納得はない。
「妙だな」
アレクシスは言う。
「君は“崩れない”」
「それが取り柄でございます」
「違う」
即座に否定する。
「崩れないのではない」
一歩、距離が詰まる。
「崩さないようにしている」
心臓が、一拍だけ強く打つ。
だが、表情は変えない。
「ご想像が豊かでいらっしゃいますのね」
「そうかもしれない」
あっさりと認める。
「だが」
声が、少しだけ低くなる。
「君は“演じている”」
沈黙。
風が、カーテンを揺らす。
レティシアは微笑んだまま。
「何のことでしょう」
「さあ」
同じ返し。
だが、意味が違う。
「君は面倒ごとが嫌いだろう」
唐突な言葉。
「……は?」
わずかに、反応が遅れる。
「だが」
アレクシスは続ける。
「放っておけない」
「だから、わざわざ“面倒な場所”に行く」
心臓が、嫌な音を立てる。
——なぜ知っている。
(このままでは、いずれ“当てられる”)
「推測だ」
答えを読んだように、言う。
「表情に出ている」
「出ていません」
「少し」
レティシアは、目を細めた。
「……失礼では?」
「事実だ」
迷いがない。
「だから」
アレクシスは、静かに言う。
「君は退屈ではない」
距離が、さらに一歩だけ縮まる。
逃げられない距離。
だが、触れはしない。
「完璧に見えるものほど、綻びが面白い」
淡々とした声。
感情は見えない。
だが——興味はある。
「……綻びなど」
レティシアは言う。
「ございませんわ」
「そうか」
アレクシスは頷いた。
そのまま、ほんのわずかに笑う。
「では、探してみるとしよう」
空気が、変わる。
はっきりと。
これは宣言だ。
——逃がさない。
「殿下」
レティシアは一礼する。
「私を試すおつもりですか」
「試す?」
アレクシスは首を傾ける。
「違うな」
そして、言い切る。
「楽しむだけだ」
ぞわりとしたものが背を走る。
この男は——
遊びで人を追い詰める。
「君は、そのままでいい」
唐突に、言葉が落ちた。
「……は?」
思わず、素の声が出る。
すぐに戻す。
だが、遅い。
アレクシスの目が、わずかに細まる。
見逃さない。
「その仮面」
静かに言う。
「どこまで保つか、見てみたい」
完全に——見抜かれている。
いや。
まだ、確定ではない。
だが。
“確信に近い何か”を持っている。
「……光栄ですわ」
レティシアは、完璧に笑った。
「期待に添えるよう、努めます」
「期待はしていない」
即答。
「裏切ってくれれば、それでいい」
最低だ。
本気でそう思う。
だが、顔には出さない。
「戻ろう」
アレクシスが言う。
「長く姿を消すと、余計な憶測を呼ぶ」
「ご配慮、痛み入ります」
歩き出す。
並ばない。
少し前を行く背中。
だが、その距離は——
さっきより、近い気がした。
会場に戻る直前。
「アルヴェール公爵令嬢」
呼び止められる。
「はい」
「次に会う時は」
一拍。
「もう少し、面白い顔を見せてくれ」
レティシアは、微笑む。
完璧に。
「努力いたしますわ」
——無理に決まってる。
心の中で、ため息をつく。
(……最悪)
(完全にロックされた)
(しかも、一番面倒なタイプに)
社交界へ戻る。
音が戻る。
視線が戻る。
だが——
もう、同じではない。
遠くで、リオンがこちらを見ていた。
楽しそうに。
カイゼルは、静かに観察している。
そして——
双子は、すでに位置を変えていた。
守るために。
逃げ場は、ない。
外でも、内でも。
すべての方向から、詰められている。
——そして、一番厄介なのは
その中心に、自分がいることだ。
それでも——
レティシア・フォン・アルヴェールは、笑う。




