第10話「王太子、静かに狙う」
社交界という場所は、戦場に似ている。
剣はない。
血も流れない。
けれど、視線が刺さる。
言葉が絡む。
笑顔の裏で、相手の立場と本音を探り合う。
そして今日も、レティシア・フォン・アルヴェールは完璧だった。
淡い色のドレス。
長く整えた銀灰の髪。
穏やかな微笑み。
「本日もお美しいですわ、レティシア様」
「恐れ入りますわ」
柔らかく返す。
優雅に。
淑やかに。
隙なく。
——面倒くさい。
内心では、もちろんそう思っている。
だが、顔には出さない。
出したら負けだ。
「相変わらずですわね」
隣に立つシャルロットが、小さく言った。
「何がですの?」
「その顔ですわ」
「顔?」
「何もかも面倒だと思っているのに、完璧に微笑んでいる顔」
レティシアの笑みが、ほんのわずかに固まる。
「……何のことかしら」
「そういうところですわ」
シャルロットは呆れたように言いながらも、どこか楽しそうだった。
その時。
会場の空気が、ふっと変わった。
ざわめきが広がる。
人々の視線が、一斉に入口へ向いた。
「……来ましたわね」
シャルロットが呟く。
「誰が?」
レティシアが視線を向けた、その先。
華やかな金髪。
人懐こい笑み。
王族らしい華やかさと、どこか軽い空気。
リオン・ヴァルシュタイン。
その隣にいるのは——
淡い金髪を持つ、落ち着いた美貌の青年。
リオンよりも穏やかで、静か。
だが、その場の空気を自然に支配する存在感がある。
カイゼル・ヴァルシュタイン。
隣国ヴァルシュタイン王国の第一王子。
「……カイ」
思わず、小さく呟いた。
聞こえるはずがない。
そう思ったのに。
カイゼルの視線が、まっすぐこちらを向いた。
そして、穏やかに微笑む。
「久しぶりだね、レティー」
その一言で、周囲がざわついた。
「……その呼び方」
レティシアは笑みを保ったまま、低く言う。
「昔からだろう?」
カイゼルは悪びれない。
「ここは王都です」
「知っているよ」
「人目があります」
「あるね」
「分かっていて言ってますわね?」
「もちろん」
穏やかな笑み。
だが、譲る気はない。
レティシアは内心で頭を抱えた。
——面倒なのが増えた。
その隣で、リオンがひらひらと手を振る。
「やっほ、レティー」
「あなたは少し黙って」
「まだ何もしてないのに」
「存在が騒がしいのよ」
「ひどい」
シャルロットが目を丸くする。
「……お知り合い、なのですわね?」
「幼少期に少し」
「少し?」
リオンが笑う。
「避暑地で塔に入り込んで迷子になったり、湖で小舟を流しかけたり、厨房で煙を出したりした仲だよ」
「リオン」
レティシアの笑顔が深くなる。
「黙りなさい」
「はいはい」
カイゼルがくすりと笑った。
「相変わらずだね」
「どこがですか」
「全部」
「失礼では?」
「褒めているよ」
「絶対違う」
「それで」
レティシアは声を落とした。
「お二人は、なぜ王都に?」
リオンが答えようとした瞬間、カイゼルが静かに口を開く。
「正式には、親善訪問だ」
「正式には?」
「王家間の交流、貿易交渉、来季の外交協定の下準備」
穏やかに言う。
だが、そこで一拍置いた。
「それから、婚姻に関する話も含まれている」
レティシアの笑みが止まる。
「……婚姻」
「候補者の確認、という名目だね」
リオンがにこにこと笑った。
「俺たち、王都にしばらくいるよ」
「帰って」
「ひどい」
「今すぐ帰って」
「やだ」
即答だった。
「レティーに会いに来たのもあるし」
周囲の令嬢たちが、ざわつく。
レティシアは、心の中で叫んだ。
——言うな。ここで言うな。
「昔の友人として、ですわよね?」
「さあ?」
リオンが笑う。
「どうだろう」
「どうだろう、ではありません」
カイゼルが静かに弟を見る。
「リオン」
「はいはい」
その一言だけで、リオンは少しだけ引いた。
レティシアはそれを見て、改めて思う。
この兄は、危ない。
穏やかで、優しくて、理性的で。
だからこそ、逃げ道を塞ぐのがうまい。
「心配しなくていい」
カイゼルが言った。
「君を困らせに来たわけじゃない」
「すでに困っています」
「だろうね」
「認めるんですか」
「君は昔から、面倒なものが増えるとそういう顔をする」
レティシアは黙った。
「……顔に出ていました?」
「少し」
「不覚」
「でも」
カイゼルは一歩だけ近づく。
近すぎない。
けれど、遠くもない。
絶妙な距離。
「君は面倒だと言いながら、必要だと思えば結局動く」
穏やかな声だった。
「そういうところは、変わっていない」
レティシアは目を細めた。
「買い被りですわ」
「そうかな」
「そうです」
「なら、そういうことにしておこう」
——否定しない。
踏み込まない。
けれど、全部見ている。
レティシアは、ぞわりと背筋に小さなものが走るのを感じた。
その時だった。
会場の空気が、もう一度変わった。
先ほどまでのざわめきとは違う。
もっと静かで、鋭い。
人々が自然と道を開ける。
その先から現れたのは——王太子、アレクシス・ルヴェイン・ディ・アルチェスター。
白金に近い金髪。
氷のような青い瞳。
優雅な立ち姿。
ただ歩くだけで、場が整う。
リオンの華やかさとも、カイゼルの穏やかな支配力とも違う。
アレクシスには、静かな圧があった。
「カイゼル殿下、リオン殿下」
アレクシスは微笑んだ。
「ようこそ、アルチェスター王国へ」
「お招きいただき感謝します、アレクシス王太子殿下」
カイゼルが礼を取る。
リオンも、さすがに軽口を控えた。
アレクシスの視線が、ゆっくりと動く。
そして——レティシアで止まった。
「アルヴェール公爵令嬢」
「王太子殿下」
レティシアは、完璧に礼を取る。
指先まで隙なく。
視線の角度まで計算して。
だが。
「久しいな」
アレクシスが言った。
「……恐れ入ります」
「君は、相変わらず完璧だ」
「身に余るお言葉ですわ」
「ただ」
わずかに、声が低くなる。
「完璧すぎるものは、見ていて退屈なことが多い」
周囲が、一瞬だけ静まる。
レティシアは微笑んだまま。
「では、退屈をさせてしまいましたでしょうか」
「いや」
アレクシスは、目を細める。
「君は退屈ではない」
心臓が、一拍だけ嫌な音を立てた。
レティシアは、笑みを崩さない。
「光栄ですわ」
「そうだな」
アレクシスは一歩近づく。
カイゼルの視線が、わずかに動いた。
リオンの笑みが、少しだけ消える。
シャルロットは黙ったまま、空気を読んでいる。
「君は、退屈そうに笑うのが上手い」
その一言は。
会場の喧騒の中で、なぜかはっきりと届いた。
「……何のことでしょう」
「さあ」
アレクシスは微笑む。
「気のせいかもしれない」
気のせいではない。
レティシアは分かった。
この人は、見ている。
“完璧な令嬢”の奥を。
「殿下」
カイゼルが、穏やかに割って入った。
「旧友との再会の場をいただけたこと、感謝いたします」
丁寧な言葉。
だが、ほんのわずかに遮る意図がある。
アレクシスはそれを理解したように、笑みを深める。
「構わない。旧友との再会は、大切にするべきだ」
視線はまだ、レティシアにある。
「私も、少し興味が湧いた」
何に。
とは言わない。
言わないからこそ、怖い。
「アルヴェール公爵令嬢」
「はい」
「後ほど、時間をもらう」
断れない。
これは依頼ではない。
命令に限りなく近い、誘いだ。
「……承知いたしました」
レティシアは微笑んだ。
完璧に。
内心では、盛大にため息をつきながら。
——面倒くさい。
——とんでもなく、面倒くさい。
(……逃げ切れる気がしない)
少し離れた場所。
会場の柱の陰で、双子はその様子を見ていた。
「……増えたな」
オスカーが低く言う。
「厄介なのが」
エルマーが返す。
「一気に来たな」
「最悪のメンツ」
「詰んでない?」
「詰ませる気はない」
エルマーの声は静かだった。
だが、そこには確かな意思があった。
「お嬢を守る」
オスカーは少しだけ笑った。
「だよね」
社交界は、戦場に似ている。
剣はない。
血も流れない。
だが。
今日、レティシアは確かに感じていた。
自分を囲む視線が、増えたことを。
悪友。
旧友。
王太子。
そして——
誰もが、少しずつ違う形で、彼女に踏み込んでくる。
面倒ごとは、また一つ増えた。
しかも今度は。
逃げるだけでは——
もう、済みそうになかった。




