第107話「五日間だけは」
翌朝。
レティシアは動かなかった。
正確には、一度だけ右腕が毛布の外へ出た。
枕元に置かれた水差しへ向かって伸び、
あと指一本分というところで止まる。
「……遠い」
そのまま腕が落ちた。
ソファで朝まで仮眠していたオスカーが目を覚ます。
「お嬢、水?」
「うん」
「起きれば届くぞ」
「無理」
即答だった。
オスカーは笑いながら水を注ぎ、ベッドまで持っていく。
レティシアは起きない。
「飲まないの?」
「起こして」
「そこまで?」
「今日はそこまで」
オスカーがレティシアの背へ腕を入れ、上半身だけ起こす。
コップを渡すと、両手で持って半分ほど飲み、そのまま再び枕へ沈んだ。
「終了」
「朝飯は?」
「いらない」
部屋の扉が開く。
盆を持ったエルマーが入ってきた。
「想定済みだ」
柔らかいパン。
薄いスープ。
果物。
そして、小さな淡雪シュー。
レティシアの片目が開いた。
「……シュー」
「飯を食ったらな」
目が閉じた。
「じゃあ、いらない」
「お嬢」
「シューだけでいい」
「駄目だ」
「横暴」
昨日も聞いた言葉に、オスカーが吹き出した。
枕元では、白が静かに開いている。
『これが、れお?』
二人の動きが止まった。
レティシアは毛布の中から答えた。
「レティシア」
『きのうと、ちがう』
「昨日も私」
『うごかない』
「今日は動かない私」
『どうして?』
「頑張ったから」
白の頁から文字が消えた。
しばらくして。
『こわれた?』
「壊れてない」
エルマーが淡々と答える。
「通常だ」
『つうじょう』
「覚えなくていいよ」
レティシアが毛布を頭まで被った。
その時、扉が三回叩かれた。
「姉上?」
ルシアンだった。
レティシアが毛布から顔だけ出す。
「いない」
オスカーが振り返る。
「返事してるぞ」
「気のせい」
「姉上、入ります」
「駄目」
今度だけ声が速い。
エルマーが扉の前へ立った。
「ルシアン様、五日間は面会禁止です」
「僕は家族です」
「家族もです」
「白という本は入っているのでしょう?」
枕元の白が開く。
『いる』
扉の向こうが静かになった。
「……なぜ本はよくて僕は駄目なんですか」
レティシアは再び毛布へ潜った。
「白は喋らないから」
『しゃべる』
「今は黙って」
『はい』
オスカーが肩を震わせる。
「もう完全に懐いてるじゃん」
「知らない」
「お嬢、昨日まで命懸けで助けてたのに」
「昨日の私と今日の私は別人」
エルマーがスープを差し出す。
「口を開けろ」
「嫌」
「淡雪シュー」
数秒。
毛布が少し下がった。
「あー」
オスカーがとうとう声を上げて笑った。
「お嬢、外での格好良さ全部どこに置いてきた?」
スープを飲み込んだレティシアが、目を閉じたまま答える。
「地下」
「拾ってくる?」
「いらない」
その後も、レティシアはベッドから出なかった。
昼食もベッド。
夕食もベッド。
着替えも最低限。
髪を整える気もない。
白が頁を開くたび、
『だいじょうぶ?』
と確認してきたが、
「五日後」
しか返ってこない。
そして夕方。
カイゼルとリオンが見舞いに訪れた。
オスカーが部屋へ戻って報告する。
「殿下二人とも来たぞ」
「帰ってもらって」
「もう帰した」
毛布の中から親指だけが立った。
「さすが」
エルマーはその手を見下ろした。
「明日は起きろよ」
親指がゆっくり倒れる。
「予定は未定」
白の頁に、新しい文字が浮かんだ。
『ひもの』
部屋が静まり返った。
レティシアが毛布から目だけを出す。
「誰が教えたの」
オスカーがエルマーを見る。
エルマーがオスカーを見る。
二人同時に首を横へ振った。
白の頁が、楽しそうにぱたぱたと揺れた。




