第105話「名をつかむ手」
石段を駆け下りるほど、金属音が近くなった。
剣と剣がぶつかる音ではない。
硬いものを、何度も断ち切ろうとする音だった。
「兄上!」
リオンの声が石壁へ反響する。
階段の先に、円形の広間が見えた。
広間の中央には、淡い金色の光。
その光を囲むように、無数の黒い腕が床と天井から伸びていた。
黒い指は互いに絡み合い、檻のような形を作っている。
その中にカイゼルがいた。
片膝をつきながらも、剣で迫る指を払い続けている。
衣服には埃がつき、頬には細い傷があった。
だが、表情は変わらず冷静だった。
「遅かったな」
「助けに来た弟へ最初に言うことがそれ?」
リオンは階段の最後の数段を飛び降りた。
着地と同時に剣を振るい、檻の外側へ伸びていた黒い腕を断つ。
切断された腕は煙となったが、すぐに床から別の腕が生えた。
「切ってもきりがないな」
オスカーも広間へ飛び込み、リオンの背後を狙った指を斬り落とす。
エルマーはレオを広間の入口で止めた。
「お嬢、ここで待て」
「この状況で?」
「だからだ」
レオは白を抱えたまま、黒い檻を見た。
指はカイゼル本人を傷つけようとしているのではない。
剣を振るうたび、彼の足元へ絡みつき、中央へ戻そうとしていた。
逃がさないための動きだった。
「白、あれは何?」
白の頁に文字が浮かぶ。
『て』
「それは見れば分かる」
『きろくする、て』
レオは眉を寄せた。
「記録?」
『なまえを、つかむ』
黒い指の一本が、カイゼルの肩へ触れた。
その瞬間、指の表面に金色の文字が浮かぶ。
『カイゼル』
文字はすぐに黒く染まり、腕の中へ吸い込まれていった。
「兄上、触れさせないで!」
「分かっている」
カイゼルが指を斬る。
だが、今度は三本が同時に足元から伸びた。
リオンが二本を止め、残り一本をオスカーが弾く。
「名前を集めてるの?」
レオは銀の鍵を見た。
今まで鍵は、扉や仕掛けを開くために使ってきた。
だが、目の前に鍵穴はない。
「お嬢、考えるのは後」
エルマーが迫る黒い指を剣で払う。
「今は殿下を外へ出す」
「外へ出しても、また捕まる」
「なら、どうする」
レオは黒い檻を睨んだ。
一本一本を切っても増える。
檻そのものを壊しても、床と天井から作り直される。
なら、壊す場所が違う。
「リオン!」
「何?」
「カイゼルの足元、何かある?」
リオンは剣を振るいながら、檻の隙間へ目を凝らした。
「円形の石板。中央に紋がある」
「どんな紋?」
「白い花と、アルヴェール家の紋」
レオはため息をついた。
「またうち?」
「先祖へ文句を言うのは、帰ってから」
「帰れたらね」
レオはエルマーの腕をすり抜け、檻へ走った。
「お嬢!」
黒い指がレオへ向きを変える。
オスカーが一歩前へ出て斬り払い、エルマーが反対側からレオの退路を作った。
止める代わりに、進める道を空ける。
いつもの動きだった。
「三秒!」
リオンが叫ぶ。
「十分」
レオは檻の前へ滑り込み、黒い指の隙間から銀の鍵を差し出した。
鍵の先が、カイゼルの足元にある石板へ触れる。
その瞬間、鍵が強く震えた。
石板の中央に、小さな鍵穴が浮かび上がる。
「やっぱり」
「何がやっぱりなんだ」
カイゼルが黒い指を押さえながら尋ねる。
「その説明も帰ってから」
レオは鍵を差し込み、一気に回した。
かちり。
小さな音が、広間全体へ響いた。
黒い檻が止まる。
すべての指が、何かを探すように宙を彷徨った。
白の頁に大きな文字が浮かぶ。
『いま』
「全員、離れて!」
レオの声と同時に、カイゼルが檻を蹴り破った。
リオンが兄の腕を引き、オスカーが二人の背後へ回る。
エルマーはレオの腰を抱え、そのまま広間の端まで引き戻した。
次の瞬間、黒い指が一斉に石板へ突き刺さった。
床が割れる。
広間の中央が崩れ、黒い腕もろとも暗い穴へ落ちていった。
激しい風が下から吹き上がる。
五人は崩れない壁際へ身を寄せた。
しばらくして、カイゼルがレオを見る。
「助かった」
「どういたしまして」
レオは答えた直後、エルマーへ体重を預けた。
「お嬢?」
「まだ止まってない」
「何が」
「私」
オスカーが笑いながら、レオの反対側を支える。
「それ、もう止まりかけてる」
広間の奥で、石が擦れる音がした。
崩れた壁の向こうに、上へ続く狭い通路が現れる。
白の頁に、淡い文字が浮かんだ。
『そと』
レオは通路を見上げた。
「やっと帰れる」
リオンが肩をすくめる。
「その台詞、地下へ入ってから何回目?」
レオは答えず、白を抱え直した。
今度こそ本当に帰る。
帰宅後に何日動けなくなるかについては、考えないことにした。




