第4章 あの日
『みどり亭』の引き戸を開けると、香ばしい油と醤油の匂いが店内に満ちていた。
「シマムラさーん! 唐揚げ定食、ご飯超大盛りで!」
パイプ椅子に勢いよく腰かけたサトウが、汗をぬぐいながら大声を上げる。野球部の練習終わりで空腹を抱えた彼の勢いに、奥の厨房から「はいよ、少し待ちな」とシマムラさんの威勢のいい声が返ってきた。
「サトウ、あんたまたそんなに食べるの? 明日は中間テストでしょ。少しは勉強の心配をしなさいよ」
向かいに座るハルカが、呆れ顔で文庫本から目を上げる。学級委員を務める彼女は、いつものようにノートを開いてペンのキャップを弄っていた。
「へっ、腹が減っちゃ勉強もできねえよ! なあ、ユウキ!」
「俺に振るなよ。お前がテストで赤点取っても、俺は知らんぞ」
ユウキは机に肘をつき、だるそうに鼻で笑う。その横で、タクヤは冷たいお茶を飲みながら、賑やかな二人のやり取りを眺めていた。
「マカベもなんか食べなよ。奢らねえけど」
サトウが笑いながら、輪の少し外側に座っている少年に声をかけた。
「ううん、僕は大丈夫。さっきパンを食べたから」
マカベは静かに微笑み、丁寧にお辞儀をするように小さく頷いた。目立たず、でしゃばらず、いつもみんなの会話に合わせて完璧なタイミングで相槌を打つ。サトウがノックでエラーをした失敗談には声を上げて笑い、ハルカがテストの点で落ち込んだ時には気遣うような顔を見せる。
だが、その瞳の奥には何の色も浮かんでいなかった。ただ鏡のように、目の前の人間たちの表情を機械的に模倣しているだけのように見えた。
タクヤはふと、マカベの視線が自分たちではなく、テーブルの上に置かれたコップの結露や、壁を這う小さな羽虫に向けられていることに気づく。マカベにとってこの場所は、仲間と過ごす青春などではなく、ただ周囲の人間を観察するための時間でしかないようだった。
◇
数日後の雨の放課後。
激しい雨が校舎の屋根を叩き、湿った土の匂いが廊下にまで立ち込めていた。
図書室の窓辺から少し離れた庇の下。濡れたツツジの植え込みを見つめて、ひとりの少女が立ち尽くしていた。カノンだった。
誰とも群れず、クラスの輪から少し離れた場所にいつも佇んでいる少女。タクヤは手に持っていた返却用の本を抱え直し、静かに彼女の隣へと歩み寄った。
「雨、すごいね」
タクヤが声をかけると、カノンはゆっくりと振り返った。湿った風に揺れる黒髪と、どこか遠くを見通すような澄んだ瞳。
「タクヤ君」
彼女は小さく口元を緩めると、再び雨の降る校舎裏の空を見上げた。
「ねえ、タクヤ君は……この町が、ずっとこのままだと思う?」
「この町が?」
「うん。この雨も、みどり亭も、みんなの笑い声も……ずっと変わらずに、ここにあり続けるのかなって」
タクヤはよくわからないというような顔をした。
カノンの声は、雨の音に吸い込まれるように静かだった。何かを予感しているような、あるいはこの世界そのものを遠くから眺めているような不思議な響き。
「……変わっていくものもあると思うよ。でも、大事なものは残るんじゃないかな」
タクヤが答えると、カノンは「そうだといいね」と短く呟き、静かに微笑んだ。
あの日、彼女が何を感じ、何を思っていたのか。その瞳に映っていた未来を、当時のタクヤは知る由もなかった。




