【第2話】白い封筒の中身
アッシュフォード辺境伯領へ向かう馬車は、翌朝に出発した。
見送りは、誰もいなかった。
かつての婚約者も、夜会で言葉を交わした令嬢たちも、長年仕えてくれた使用人たちも——財産没収と同時に屋敷を去り、今朝の馬車乗り場には、王家から派遣された御者が一人いるだけだった。
私は小さなトランクを一つだけ持って、馬車に乗り込んだ。
白い封筒は、コートの内ポケットに入れてある。
王都を出ると、街の喧騒が遠ざかった。窓の外を流れる景色が、石畳から土道に変わり、建物が減り、木々が増えていく。加護を持つ者たちの輝きも、少しずつ遠ざかっていく。
頭の奥が、静かになっていった。
ずっとこんな風に痛かったのだと、痛みが引いて初めてわかった。
*
最初の宿場町で一泊した夜、私は封筒を開けた。
中に入っていたのは、三つ折りにされた紙が一枚。父の、几帳面な筆跡で書かれていた。
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エルネスタへ。
これを読んでいるということは、私はもういないか、あるいは連れて行かれたかのどちらかだろう。お前に何も伝えられなかったことを、許してほしい。
お前が十歳の時、加護の儀で何も起きなかった。あの日から私は調べ始めた。十年かけて、少しずつ。
この国の加護は、神の祝福ではない。
百年前のある時期から、加護を持つ者が急激に増えた。神殿の記録にはそれ以前、加護を持つ者は全体の一割にも満たなかったとある。今や加護を持たない者を探す方が難しい。これを「神の恵みの時代」と呼ぶ者もいるが——私には、そうは思えなかった。
加護を持つ者と、持たない者。私が観察した限り、両者の間には奇妙な差異がある。
加護を持つ者は、皆よく似た表情をする。よく笑い、よく輝き、よく同調する。異論を唱える者が、年々減っている。国庫の数字がどれだけ乱れていても、誰も気にしない。おかしいと言う者は、気がつけばいなくなっている。
私がおかしいと言った者の一人だった。だから、こうなった。
お前に加護がなかったのは、欠陥ではない。拒絶だ。お前の体が、何かを拒んでいる。それが何なのか、私にはまだわからない。ただ——お前のような者が、この世界にはまだいる。神殿の古い文献に「七灯の乙女」という言葉があった。詳細は失われているが、七人の女が世界の均衡を保つという、神話時代の記述だ。
アッシュフォード辺境伯は、信頼できる。彼の領地は北の果てで、加護の影響が薄い。理由はわからないが、あそこだけ、空気が違う。
お前は何も悪くない。何も欠けていない。
ただ、見えているものを、信じなさい。
お前の目は正しい。
父より
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私は手紙を三つ折りに戻して、封筒に入れた。
窓の外は暗く、星が出ていた。加護の光のない、静かな夜空。
見えているものを、信じなさい。
私の目に王都で見えていたもの。
チカチカと脈打つ光。重そうな紋様。泥のような虹色のお菓子。
そして——大広間で、父と私だけ、頭上に何もなかった景色。
頭上に何もないということが、なぜか今も美しいと思う。
おかしいだろうか。
でも父は言った。お前の目は正しい、と。
*
馬車は十一日かけて、アッシュフォード辺境伯領に着いた。
北に進むにつれて、空気が変わっていくのがわかった。重さが、消えていく。頭の奥が、どんどん軽くなる。景色も変わった。王都の煌びやかな建物はなく、石造りの素朴な家々、広い農地、遠くに山脈が広がっている。
この土地は色が、少ない。
でも不思議と、ここの景色は目が痛くなかった。
領主館は、丘の上にあった。灰色の石造りで、装飾が少なく、質実剛健という言葉がよく似合う建物だった。
玄関で待っていたのは、執事の老人と——もう一人。
年の頃は三十前後。黒い髪、灰色の瞳。表情に乏しく、私を見る目は値踏みするような、あるいはただ観察しているような色をしていた。頭上には——加護の紋様があるが、他の貴族のものと比べると、ずいぶん淡い。まるで遠くにある星のように、かすかに光るだけ。
「アッシュフォード辺境伯、レオン・アッシュフォードだ」
声は低く、感情がなかった。
「ヴァイス侯爵令嬢エルネスタです。このたびはお引き受けいただき、ありがとうございます」
「礼はいい。ヴァイス侯爵には世話になった。娘を預かるのは、その返礼という意味でだ」
それだけ言って、辺境伯は踵を返した。執事の老人が恐縮したように頭を下げ、私を館の中へ案内した。
感じの良い方とは言えない。
でも——彼の頭上の、かすかな光は、目が痛くなかった。それだけで、私はどこかほっとしていた。
*
館に落ち着いてから三日後、私は庭に出た。
広い庭だった。手入れされているが、華美ではない。白い石畳、整えられた生垣、季節の花々——どれも余計なものがなく、静かだった。
庭の奥、小さな温室の前で、老女が花に水をやっていた。
執事に確認したところ、カリアという庭師だという。いつからいるのか、はっきりしないが、先代の辺境伯の時代からいるらしい、と曖昧な答えが返ってきた。
「お嬢さん、こんにちは」
近づいた私に、老女が話しかけた。
白髪を後ろで束ね、土のついたエプロンを着けた、小柄な老女。その目は——深く、静かで、何かをずっと見てきた者の目をしていた。
「こんにちは。初めまして。エルネスタ・ヴァイスと申します」
「知っているよ。遠いところまで、よく来たね」
老女は水やりを続けながら言った。
「エルネスタさんのことは、来る前からわかっていました」
「……どうしてですか?」
老女がようやく私を見た。その目が、私の頭上を——確認した。
そして、静かに微笑んだ。
「頭の上に何も乗っていないね。良かったわ」
私は息を呑んだ。
加護がないことを喜ぶ者に、初めて会った。
「カリア様も……」
「私も、何もありませんよ」
老女は自分の頭の上を指差した。
「ずっと一人でした。何十年も。あなたが来ると、わかっていたけれど——やっぱり、嬉しいものですね」
風が吹いた。温室のガラスが、北の光を柔らかく反射した。
私は老女の目を見た。深く、静かで、何かをずっと見てきた目。
あなたが来ると、わかっていた。
「……もしかして、カリア様は」
「エルネスタさんは、ご存じなのですね。そうです」
「古い言葉で言えば、七灯の乙女。今風に言えば——あなたと同じ、聖女ですよ」
「私と同じ?私が、聖女だというのですか?」
老女は頷いた。
私は、庭に立ったまま、しばらく動けなかった。
頭の上には何もなく、空は青く、風は冷たく、北の光は白かった。
聖女。虹色の光を持たないのに、聖女だとカリアは言った。
父の手紙にもあった言葉。
欠陥ではなく、拒絶。私の体が拒んでいたもの——それが何なのか、まだわからない。ただ、カリアという老女は、世界が泥のように見えても、光が目に痛くても、一人で何十年も生きてきたんだ。
「七灯の乙女は、七人います」
カリアが言った。
「私が知っているのは、私とエルネスタさんの、二人です」
まだ、五人いるんだ。あとの五人はどうしているんだろう。
私は空を見上げた。加護の光のない、透明な青空が広がっていた。




