表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『神の加護なし』を理由に、婚約破棄された侯爵令嬢  作者: 風谷 華


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/3

【第2話】白い封筒の中身

 アッシュフォード辺境伯領へ向かう馬車は、翌朝に出発した。


 見送りは、誰もいなかった。


 かつての婚約者も、夜会で言葉を交わした令嬢たちも、長年仕えてくれた使用人たちも——財産没収と同時に屋敷を去り、今朝の馬車乗り場には、王家から派遣された御者が一人いるだけだった。


 私は小さなトランクを一つだけ持って、馬車に乗り込んだ。


 白い封筒は、コートの内ポケットに入れてある。


 王都を出ると、街の喧騒が遠ざかった。窓の外を流れる景色が、石畳から土道に変わり、建物が減り、木々が増えていく。加護を持つ者たちの輝きも、少しずつ遠ざかっていく。


 頭の奥が、静かになっていった。


 ずっとこんな風に痛かったのだと、痛みが引いて初めてわかった。



 最初の宿場町で一泊した夜、私は封筒を開けた。


 中に入っていたのは、三つ折りにされた紙が一枚。父の、几帳面な筆跡で書かれていた。


────────────────────────


 エルネスタへ。


 これを読んでいるということは、私はもういないか、あるいは連れて行かれたかのどちらかだろう。お前に何も伝えられなかったことを、許してほしい。


 お前が十歳の時、加護の儀で何も起きなかった。あの日から私は調べ始めた。十年かけて、少しずつ。


 この国の加護は、神の祝福ではない。


 百年前のある時期から、加護を持つ者が急激に増えた。神殿の記録にはそれ以前、加護を持つ者は全体の一割にも満たなかったとある。今や加護を持たない者を探す方が難しい。これを「神の恵みの時代」と呼ぶ者もいるが——私には、そうは思えなかった。


 加護を持つ者と、持たない者。私が観察した限り、両者の間には奇妙な差異がある。


 加護を持つ者は、皆よく似た表情をする。よく笑い、よく輝き、よく同調する。異論を唱える者が、年々減っている。国庫の数字がどれだけ乱れていても、誰も気にしない。おかしいと言う者は、気がつけばいなくなっている。


 私がおかしいと言った者の一人だった。だから、こうなった。


 お前に加護がなかったのは、欠陥ではない。拒絶だ。お前の体が、何かを拒んでいる。それが何なのか、私にはまだわからない。ただ——お前のような者が、この世界にはまだいる。神殿の古い文献に「七灯の乙女」という言葉があった。詳細は失われているが、七人の女が世界の均衡を保つという、神話時代の記述だ。


 アッシュフォード辺境伯は、信頼できる。彼の領地は北の果てで、加護の影響が薄い。理由はわからないが、あそこだけ、空気が違う。


 お前は何も悪くない。何も欠けていない。


 ただ、見えているものを、信じなさい。


 お前の目は正しい。


父より


────────────────────────


 私は手紙を三つ折りに戻して、封筒に入れた。


 窓の外は暗く、星が出ていた。加護の光のない、静かな夜空。


 見えているものを、信じなさい。


 私の目に王都で見えていたもの。

 チカチカと脈打つ光。重そうな紋様。泥のような虹色のお菓子。


 そして——大広間で、父と私だけ、頭上に何もなかった景色。


 頭上に何もないということが、なぜか今も美しいと思う。


 おかしいだろうか。


 でも父は言った。お前の目は正しい、と。



 馬車は十一日かけて、アッシュフォード辺境伯領に着いた。


 北に進むにつれて、空気が変わっていくのがわかった。重さが、消えていく。頭の奥が、どんどん軽くなる。景色も変わった。王都の煌びやかな建物はなく、石造りの素朴な家々、広い農地、遠くに山脈が広がっている。


 この土地は色が、少ない。


 でも不思議と、ここの景色は目が痛くなかった。


 領主館は、丘の上にあった。灰色の石造りで、装飾が少なく、質実剛健という言葉がよく似合う建物だった。


 玄関で待っていたのは、執事の老人と——もう一人。


 年の頃は三十前後。黒い髪、灰色の瞳。表情に乏しく、私を見る目は値踏みするような、あるいはただ観察しているような色をしていた。頭上には——加護の紋様があるが、他の貴族のものと比べると、ずいぶん淡い。まるで遠くにある星のように、かすかに光るだけ。


「アッシュフォード辺境伯、レオン・アッシュフォードだ」


 声は低く、感情がなかった。


「ヴァイス侯爵令嬢エルネスタです。このたびはお引き受けいただき、ありがとうございます」


「礼はいい。ヴァイス侯爵には世話になった。娘を預かるのは、その返礼という意味でだ」


 それだけ言って、辺境伯は踵を返した。執事の老人が恐縮したように頭を下げ、私を館の中へ案内した。


 感じの良い方とは言えない。


 でも——彼の頭上の、かすかな光は、目が痛くなかった。それだけで、私はどこかほっとしていた。



 館に落ち着いてから三日後、私は庭に出た。


 広い庭だった。手入れされているが、華美ではない。白い石畳、整えられた生垣、季節の花々——どれも余計なものがなく、静かだった。


 庭の奥、小さな温室の前で、老女が花に水をやっていた。


 執事に確認したところ、カリアという庭師だという。いつからいるのか、はっきりしないが、先代の辺境伯の時代からいるらしい、と曖昧な答えが返ってきた。


「お嬢さん、こんにちは」


 近づいた私に、老女が話しかけた。


 白髪を後ろで束ね、土のついたエプロンを着けた、小柄な老女。その目は——深く、静かで、何かをずっと見てきた者の目をしていた。


「こんにちは。初めまして。エルネスタ・ヴァイスと申します」


「知っているよ。遠いところまで、よく来たね」


 老女は水やりを続けながら言った。


「エルネスタさんのことは、来る前からわかっていました」


「……どうしてですか?」


 老女がようやく私を見た。その目が、私の頭上を——確認した。


 そして、静かに微笑んだ。


「頭の上に何も乗っていないね。良かったわ」


 私は息を呑んだ。


 加護がないことを喜ぶ者に、初めて会った。


「カリア様も……」


「私も、何もありませんよ」


 老女は自分の頭の上を指差した。


「ずっと一人でした。何十年も。あなたが来ると、わかっていたけれど——やっぱり、嬉しいものですね」


 風が吹いた。温室のガラスが、北の光を柔らかく反射した。


 私は老女の目を見た。深く、静かで、何かをずっと見てきた目。


 あなたが来ると、わかっていた。


「……もしかして、カリア様は」


「エルネスタさんは、ご存じなのですね。そうです」

「古い言葉で言えば、七灯の乙女。今風に言えば——あなたと同じ、聖女ですよ」


「私と同じ?私が、聖女だというのですか?」


 老女は頷いた。


 私は、庭に立ったまま、しばらく動けなかった。


 頭の上には何もなく、空は青く、風は冷たく、北の光は白かった。


 聖女。虹色の光を持たないのに、聖女だとカリアは言った。


 父の手紙にもあった言葉。


 欠陥ではなく、拒絶。私の体が拒んでいたもの——それが何なのか、まだわからない。ただ、カリアという老女は、世界が泥のように見えても、光が目に痛くても、一人で何十年も生きてきたんだ。



「七灯の乙女は、七人います」


 カリアが言った。


「私が知っているのは、私とエルネスタさんの、二人です」


 まだ、五人いるんだ。あとの五人はどうしているんだろう。



 私は空を見上げた。加護の光のない、透明な青空が広がっていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ