第2章:聖女様のご来店と、恐怖の美肌クリーム(第3話)
ロバートの構えるメスの刃先が、微塵の迷いもなく貴婦人の白い肌へと滑り込んだ。
「ひっ……!」
聖女が思わず短い悲鳴を上げて目を背ける。
だが、当の貴婦人は、ロバートの完璧な局所麻酔によって痛みを感じていない。ただ、自分の肌が切り裂かれる微かな感触と、医師の放つ圧倒的な集中力に圧倒され、硬直したまま天井を見つめていた。
(よし、いいぞロバート先生。そのまま迷わず進め)
俺は魔導ランプを掲げながら、ロバートの網膜に『光のガイドライン』を投影し続けた。
【術中エコーナビゲーション:作動中】
【腫瘍境界からの距離:1.5ミリメートル。安全圏を維持】
【深度:皮下組織層。これより下層の表情筋(大頬骨筋)への浸潤なし】
(深さはそこまでだ。それ以上深くメスを入れると、顔面神経を傷つける。刃の角度をやや寝かせて、しこりを下から掬い上げるように剥離するんだ)
俺の脳内アナライズが示すリアルタイムの断面図と指示を、ロバートは長年のコンビネーションで完全に汲み取る。
彼の手元は驚くほど正確だった。かつて宮廷で無能な上層部にヘコヘコしていたヘタレ男の面影はどこにもない。メスを持つ指先は、冷徹なまでに「一流の外科医」そのものだった。
「セラム、モスキート(小さな止血鉗子)だ。それとガーゼで術野を拭え」
「はい、どうぞ」
顔面は血管が豊富だ。メスが進むにつれて細い血管からダラダラと血が溢れ、放っておけば視界が真っ赤に染まってマージンが見えなくなる。
俺が素早くガーゼで血を吸い取り、ロバートが出血点をピンポイントでパチンとモスキートペアンで挟んで止血する。この一連の流れるようなサポートによって、俺が投影する青いガイドラインは常にクリアに保たれ続けた。
「聖女よ、よく見ておくがいい」
ロバートは手を動かしながら、あえて冷徹なトーンで語りかけた。
「あなた方が『悪魔の呪い』と恐れ、ヒールを乱打したこの腫物の正体だ。……ほら、皮膚の裏側で、このように周囲の健常な組織を侵食しようと、醜く根を張っている」
ペアンで牽引され、少しずつ露出していく梅干し大のしこり。それは、正常なピンク色の皮下組織の中で、異様にドス黒く、硬く引き締まった不気味な肉の塊だった。これこそが、高級クリームによって狂わされ、ヒールによって急成長を遂げた「低分化腺癌」の本体だ。
「これ、が……。呪いではなく、ただの『肉の塊』……?」
聖女が恐る恐る目を開け、血の気の引いた顔でその光景を凝視する。
「左様! 神の罰でも悪魔の仕業でもない。ただの、制御を失った哀れな細胞の成れの果てだ。──これで、終わりだッ!」
パチン、と微かな音がした。
青いガイドラインの完璧な外側をなぞりきったロバートのメスが、最後の結合組織を切り離す。
ロバートは、摘出したドス黒いしこりの塊を、用意しておいた聖なる(ただの綺麗な)ガラス皿の上へとコロン、と落とした。
「……終わったぞ、御婦人。あなたの顔から、悪魔は完全に消え去った」
ロバートが告げた瞬間、貴婦人ははっと我に返ったように大きな息を吐き出した。
「え……? もう、終わったの……? 痛みが、本当に一度も……」
「まだ動いてはならない。最後の仕上げだ。──セラム、止血鉗子を外せ」
「はい」
俺がクランプを解除すると同時に、ロバートはメスを置き、貴婦人の切り開かれた頬へとそっと右手をかざした。
その手掌から、優しく温かい、純白の魔力が溢れ出す。治癒魔法だ。
「なっ……ドクター・ロバート!? あなた、今ヒールを──!?」
聖女が驚愕の声を上げる。先ほどあれほど「ヒールは全面中止しろ」と怒鳴り散らした男が、自ら魔法を唱えているのだから当然だ。
しかし、ロバートはフッ……と不敵に笑い、そのまま魔法の出力をコントロールし続けた。
「勘違いするな、聖女。私はヒールそのものを否定したわけではない。……狂った細胞が綺麗に消え去った今、この傷口に残されているのは、規律正しく大人しい、健常な肌の細胞だけだ」
ロバートの純白の魔力が染み込んでいくと、貴婦人の開いた皮膚の断面が、まるで見えない糸で引き寄せられるように、みるみるうちに美しく融合していく。
「あ……ああ……!」
傷口の奥から表面へ、順番に細胞が急速再生し、ピタリ、ピタリと隙間なく塞がっていく。縫合糸を一切使わないため、肉を結ぶ結び目もなければ、後で糸を抜く必要もない。ただ「元から傷などなかった」かのように、皮膚の連続性が完璧に復元されていく。
「がんを遺残なく完全切除した後にのみ許される、これこそが真の『解剖学的ヒール』の術式だ。病巣ごと大雑把に魔法をぶつけるあなた方の回復術とは、緻密さの次元が違うのだよ」
わずか数十秒。
あれほど醜く盛り上がっていた梅干し大のしこりは、文字通り跡形もなく消え去り、貴婦人の頬には、赤みすら残らない、陶器のように滑らかな美肌だけが蘇っていた。
「おお……なんて、なんて見事な魔法の制御……。病巣を切り開いて取り除き、正常な部分だけを狙って魔法をかけるなんて、そんな概念、神殿の誰も思いつきもしませんでした……!」
聖女が感嘆のあまり、その場に崩れ落ちるように胸の前で手を組む。
ロバートは静かに手を引っ込めると、フッ……と髪をかき上げて、椅子の背もたれに堂々と腰掛けた。
「ふむ。エビデンス(根拠)なき医療に救いはありません。御婦人、これで二度とあの美肌クリームを塗らなければ、その化け物が再発することはないでしょう」
貴婦人は手鏡を受け取り、自分の顔を信じられないといった様子で見つめていたが、やがてその目に、大粒の涙が溢れ出した。
「あ……ああ……! 治った……本当に、元の私の顔に戻ったわ……! あの醜い化け物が、消えた……!」
彼女は椅子から滑り落ちるようにして、ロバートの前に膝を突いた。
「ドクター・ロバート……! あなたは命の恩人ですわ……! 疑ったりして、本当に申し訳ありませんでした……!」
「気になさるな。我が診療所に足を踏み入れた以上、身分も過去も関係ない。ただの病人と医者だ」
完璧な決め台詞と共に、ロバートは机の上の砂時計をチラリと見た。
手術開始から、ちょうど15分。魔法による超高速閉創のおかげで、俺のカンペ以上の完璧な仕上がりだ。
(よし、完璧だロバート先生。あとはこの大金持ちの貴婦人から、たっぷりお代をいただく……)
そう俺が心の中でほくそ笑んだ、その時だった。
長椅子から立ち上がった聖女が、ひどく思い詰めた、しかし強固な決意を秘めた目で、ロバートを真っ直ぐに見つめた。
「ドクター・ロバート。あなたのその『エビデンス』という驚異の医術……。どうか、我が神殿の神官たちにも教えてはいただけないでしょうか。今、王都では、この御婦人と同じ美肌クリームが、何百人もの貴族の女性たちに売られているのです……!」
「……は?」
ロバートの顔が、一瞬で素に戻った。
(え、何百人……!? 嘘でしょセラム殿、それ全員がん患者になるってこと!?)
ロバートの目が、背後の俺に向かって完全に恐怖で泳ぎ始める。
俺はそっと、自分の懐中時計を見た。時刻は午前9時45分。
(……おいおい、まだ午前中だが、王都中の『がんパニック』に巻き込まれる巨大な案件が、ボロ診療所に転がり込んできやがったぞ……)
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