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【第11章・最終章】影の臨床検査技師、本日も定時退社につき(最終話)

 玉座の間を辞した二人の前を、国王の側近が小走りで追ってきた。


「国王陛下からのさらなるお言葉です。セラム殿を、我が国の初代『国家衛生長官』として正式に任命したいと……王宮内に専用の執務室を設けて、全医療組織を統括してほしいとのことです!」


 その申し出は、間違いなく名誉なことであった。


 しかし、それはセラムにとっ「終わりのない会議」と「増え続ける管理業務」、そして「定時などあってないような多忙な日々」が約束された、地獄の終身雇用ポストに他ならない。


 セラムは懐中時計をチラリと見た。

 秒針が、まるで彼の背中を押すかのように16時59分を刻んでいる。


「丁重にお断りします。私は現場の検査技師として、定時の中でベストを尽くすのが信条ですので」


 セラムは側近の呆気にとられた表情を一瞥もせず、王宮の長い廊下を歩き始めた。

 背後で側近が何かを叫んでいるが、彼の耳には届かない。


 16時59分45秒。

 彼の歩調は一切乱れない。

 淡々と、しかし確実に、彼は出口へと向かっている。

 王宮の重厚な扉を開け放つその瞬間を、彼は心から待ちわびていた。

 16時59分55秒。王宮の正面扉が見えてくる。

 16時59分58秒。

 16時59分59秒。

 ゴォォォォン……。

 王都を包み込むようにして、17時の鐘が重厚な音色で鳴り響いた。


「よし。定時だ」


 その瞬間、セラムの姿は王宮の光の中に溶け込むように、物理的にその場から霧散した。

 側近が慌てて振り返った時には、そこには誰の影も形もなく、ただ夕陽に照らされた石の床が広がっているだけであった。


 国家の最高権力からの直々のオファーすらも、彼の「定時退社への執念」という物理法則の前では、何の意味も持たなかったのだ。


 ……数十分後。

貧民街の喧騒から少し離れた路地に、温かな灯りが漏れる場所がある。

 『琥珀の泡亭』の暖簾をくぐると、昨日までと変わらぬ、しかし昨日よりずっと平穏な空気が流れていた。


「おっ、セラムちゃん! お疲れさん! 今日は王宮に呼ばれたって聞いたぞ。大変だったろう?」


 マスターの豪快な声が響く。

 セラムはいつも座るカウンターの定位置に腰を下ろし、深く息を吐いた。

 王宮での緊張感から完全に解放され、肩の力が抜けきっているのがわかる。


「ええ、少しばかり長時間の調整が必要でしたが……ようやく、全て終わりました」


「へぇ、何よりだ。で、今日は何にする? もちろん、お祝いの特別版だろ?」


「ええ。いつもの。最高に冷えたのを」


 ドン、とカウンターに置かれたのは、黄金の泡が黄金比率で重なる、キンキンに冷えたジョッキであった。

 そして、甘辛い香りを漂わせる特製のモツ煮込みが添えられる。


 セラムはジョッキを手に取ると、王宮の権力争いも、ウイルスの脅威も、すべてを忘れてその冷たさを喉の奥へ流し込んだ。


ゴク、ゴク、ゴク、ゴク……プハッ!


「……最高だ」


 喉を通る黄金の液体が、過酷だった一日の疲れを洗い流していく。

 温かい煮込みを口に運び、店内の喧騒に身を委ねる。

 仕事から解放されたこのひと時こそ、彼が守りたかった唯一無二の至福である。


 セラムの表情は穏やかに緩み、その瞳には今日一日をやり遂げた者だけが持つ、柔らかな充足感が灯っていた。

 隣で飲んでいる常連客たちと、他愛のない世間話を交わす。


 医学の話も、パンデミックの話も出ない。

 ただ、酒が美味い、料理が美味いという、人間として当たり前の幸せ。

 セラムは自分の人生が今、確かにこの平穏な場所にあることを噛みしめていた。


 幸せな時間は、彼の心臓をゆっくりと、しかし確実に温めていく。


「さて、明日は何をしようかな。資料の整理も片付いたし、少しのんびりできるかもしれない」


 彼は独りごちて、空になったジョッキをカウンターに置いた。


 王都の夜空には、穏やかな星が輝き、明日という「定時の始まり」を静かに告げている。


……しかし、運命とは皮肉なものだ。

 その翌朝のことである。診療所の重い扉が、激しい音を立てて開かれた。


「先生! 助けてくれ! 娘が……朝から様子がおかしいんだ!」


 駆け込んできたのは、見たこともないほど憔悴した父親であった。

 その腕の中には、突如として四肢が硬直し、自身の意志とは無関係に激しいけいれんを繰り返している少女がいる。


 意識は混濁し、口元からは泡が吹かれていた。

 ロバート医師が表情を硬くし、即座に診断のために駆け寄る。

 セラムは、懐から取り出そうとしていた温かいコーヒーの入ったマグカップを、ゆっくりと机に置いた。

 その瞳の中に、再び鋭い臨床検査技師としての光が宿る。


 今回の症例は、明らかに神経系の疾患を示唆する不随意運動だ。

 中枢神経に何らかの異変が起きている可能性が高い。

 セラムは、心の中で「定時退社」という言葉をそっと鍵のかかる引き出しにしまい込み、白衣の袖をまくり上げた。


「……診療開始です。ロバート先生、まずは神経学的所見と髄液検体の採取を。すぐにバックグラウンドの解析データを出します」


 過酷な現実が、再び彼を待ち受けている。


 しかし、この診療所でロバートとともに立ち向かう日々に、セラムは少しだけ口角を上げた。

 前途多難。それでも、自分たちにはこの王都を支える知識と技術がある。


 セラムの検査技師生活は、終わるどころか、まだまだこれからも続くのであった。

この度は私の小説をお読みいただきまして誠にありがとうございました。今まで小説を書いたことなど全くない中での執筆活動でした。

拙い文章力で読みにくいことも多々あったかと思いますがみなさまにお読みいただけたこと感謝しかございません。

アクセス数など少しずつ増えていき、とても執筆活動の励みになりました。

本当にありがとうございました。

他の作品も目を通していただければ幸いです。

時をめぐる勇者の円環も結末は決まっているのですが、もう少し時間がかかると思います。

また、新しくオール・アルケミー(スキル合成)で始める異世界変革も投稿していきます。

これらも少しずつ執筆活動を続けていきますので温かく見守っていてください。

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