【第11章・最終章】影の臨床検査技師、本日も定時退社につき(第3話)
ロバート医師による広場での劇的な論破と、セラムの手による路地裏での迅速な集団防疫処置――これらは、王都の地下でくすぶっていた「教会の恐怖政治」という名のパンデミックを、科学というメスで完全に摘出したに等しい行為であった。街中が、教会の息の根が止まったことに対する静かな熱狂に包まれる中、ロバートとセラムの元には、王宮からの使者が慌ただしく駆けつけた。国王陛下が、今回の事態を収拾した二人を即座に玉座の間へ召喚したいという意向である。
王宮への道すがら、ロバートは高揚を隠しきれない様子だった。これまでの冷遇を覆し、ついに医学が正当な評価を受ける時が来たのだ。対するセラムは、いつもの無機質な表情を崩さない。彼にとっての関心事は、この謁見がいかに短時間で終了し、自身の「定時」というスケジュールを狂わせないかという点にのみ集約されていた。
謁見の場である玉座の間は、威圧的なまでの重厚さに支配されていた。天井高くに嵌め込まれたステンドグラスから差し込む光が、磨き上げられた大理石の床を七色に照らし、そこには王国の重鎮たちがずらりと居並んでいる。かつて教会側についていた貴族たちの視線が、ロバートとセラムの背中に冷たく突き刺さる。中央の玉座に座す国王は、威厳に満ちた眼光で二人を見下ろしていた。
「ロバート医師、そして助手のセラムよ」
国王のよく通る声が、広大な玉座の間に反響した。
「お前たちがこの王都で成し遂げたことは、まさに奇跡と呼ぶにふさわしい。教会による暴挙を止めたその知勇、そして住民を死の淵から救い上げたその手腕……褒美として、相応の爵位と、王都近郊に広大な領地を授けよう。明日からは王国の高官として、さらなる貢献を期待する。そなたらには、我が国を導く資格がある」
国王の言葉に、周囲の貴族たちから感嘆の声と、隠しきれない嫉妬の混じった囁きが漏れた。平民にとって、爵位と領地は一族の運命を変える破格の厚遇である。しかし、ロバートが感激の面持ちで深々と礼を尽くす傍らで、セラムだけは表情一つ変えず、冷淡な眼差しで国王を射抜いていた。
「……陛下。爵位など不要です。謹んで辞退させていただきます」
その無機質な返答に、場が一瞬にして凍りついた。貴族たちの間から「無礼者!」「国王陛下の慈悲を何と心得る!」という怒号が飛び交うが、セラムは騒音を遮断するかのように、白衣の懐から一冊の巻物を無造作に取り出し、玉座の前の台座に音を立てて広げた。
「陛下。名誉や領地といった不確定な報酬よりも、私は王都の安全維持という実利を優先したい。……今後のパンデミック発生確率を最小化し、かつ、私個人の無駄な残業を恒久的に削減するため、この法案に即刻サインをいただきたい」
広げられた巻物には、騎士団および下水処理従事者に対する「狂犬病予防接種(事前ワクチン)」の国家義務化に関する法的枠組みが、緻密な文字で記されていた。それは単なる要求ではない。前世の知識と今回の臨床データを掛け合わせ、リスクを数値化し、極めて論理的かつ冷徹に構築された「王国の衛生防衛計画」である。
「現場の安全管理を怠る組織は、いずれ同じ過ちで破綻します。その事後処理に追われるのは私であり、結果として王都の防衛力も低下する。そんな不毛な時間は、私のキャリアにおいても、王国の未来においても不要です。今回の教会の騒動も、最初からこの法案に基づいて現場管理が徹底されていれば、そもそも発生しなかった」
セラムの言葉には、感情の混じりけが一切ない。純粋な効率論が、権威の象徴である玉座の間を冷ややかに支配していく。貴族たちは「一介の助手が政治を語るな」と憤慨していたが、国王は違った。彼は巻物に記された細密な数字と、リスク分析の積み重ねの中に、王国の弱点を的確に突く「冷徹な知性」を見たのだ。現場を熟知し、根源的な問題を排除しようとする姿勢こそ、今の王国に最も欠けている要素であると国王は直感した。
「……面白い。貴族の地位よりも、自らの仕事の安全を求めるというのか。前代未聞だな。お前のような男が宮廷にいると、私の側近たちも気が気ではないだろう」
国王は含みのある笑みを浮かべ、セラムが差し出したペンを手に取った。周囲の貴族たちは、一介の助手が王権を動かす様子を信じられないものを見るような目で見つめている。セラムは表情を変えず、淡々と法案が承認される瞬間を待っていた。それは個人の執念が、王国のシステムを書き換えた歴史的な交渉の成立であった。
「これで契約成立ですね。……あとは、速やかな施行を。不備があれば、また私が現場で対処することになりますから」
セラムは承認された巻物を丁重に、しかし事務的に回収した。彼の目的は完全に達成された。国家という巨大な組織が、彼の提言によって動き出し、不確定なリスクが排除される。彼にとって、それは「王都を救うこと」と同義であり、何よりも自身の平穏な退社を確実にするための、最大の投資であった。玉座の間を出るセラムの足取りは、誰の目にも確信に満ちて見えた。王宮の重厚な扉が閉まる瞬間まで、彼は一度も振り返らなかった。その背中には、定時という聖域を守り抜く意志が、鋼の如く刻まれていたのである。
よろしければ何点でも構いませんので評価やコメントをいただけると嬉しいです。




