【第11章・最終章】影の臨床検査技師、本日も定時退社につき(第2話)
広場でロバート医師が教会の傲慢さを論理で切り裂いているその裏手で、セラムは王都の歴史を覆す「超絶実務」を黙々と遂行していた。
路地裏に構築されたのは、彼が【臨床検査ラボ・システム】と一体化することで実現した、究極の医療処理プラットフォームである。
目の前には、感染の疑いがある貧民街の住民や、教会の命令で連行された討伐隊を含め、総勢342名が列を成していた。
彼らの表情には、これから行われる処置への恐怖と、ロバート医師へのわずかな希望が混在している。
「皆さん、落ち着いてください。今から私が皆さんの体内にある毒を、完全に中和します」
セラムの声は短く、路地裏の静寂に沈んだ。
患者の不安は心拍を乱し、処置の精度を阻害する「不確定要素」だと理解しているからだ。
「怖いかもしれませんが、腕を出して、真っ直ぐ前を見ていてください。私が触れるのは、その毒だけです。痛みは最小限に留めます」
セラムは自身の脳内ラボ・システムを全開で駆動させた。
網膜には、並んでいる一人ひとりの血管の走行、皮膚の硬度、ウイルス負荷量がリアルタイムで投影される。
その瞳には、機械的な冷たさではなく、対象を確実に「治癒」へと導こうとする、熟練の職人が素材を見極める鋭い光が宿っている。
「次の方、腕を。そう、そこです」
セラムの動きは、物理的な無駄を一切排除した極致にあった。
右手に握られた注射器が、まるで手の一部のように舞う。
患者の腕に触れるコンマ数秒、筋肉のわずかな緊張を指先で感知し、脳内ラボで即座にその人の体質を解析する。
アレルギー反応、現在の炎症レベル。
それらすべての臨床データを瞬時に統合し、投与すべき中和抗体の組成を最適化する。
前世で叩き込まれた膨大な症例データと、この世界で蓄積した実務経験が、彼の思考を加速させていた。
「えっ……? もう終わったのか? 何も……感じなかった」
列の先頭にいた若者が呆然と呟く。
セラムは視線を落とさないまま、次へ促す。
「はい、終わりです。もう大丈夫ですよ。深呼吸を一つして、隣の待機列へ。次の人も、同じように腕を楽にしてください」
一切の無駄がない。
セラムは淡々と、しかし「確実だ」という揺るぎない態度を貫く。
彼にとって患者を不安のまま帰すことは、データとして「未完了」であり、検査技師としての誇りがそれを許さない。
隣で列の整理にあたっていたミリーは、事態の深刻さに震えながらも、セラムのあまりの技術の高さに、恐怖を忘れて見入っていた。
昨日までの彼は、ロバート先生の影でぼんやりと資料を整理している助手に過ぎなかった。
しかし今、路地裏の薄暗がりの中で、彼は王都の命をその手一つで操っている。
「セラム……あなた、本当に……」
「ミリーさん、動線を確保して。後ろの人たちが詰まると、皆さんが待つ時間が長くなってしまう。彼らにとっては、一秒でも早い処置が一番の薬なんです」
ミリーはハッとして、住民たちを優しく誘導し始めた。
彼女にとっても、セラムの言葉は突き放すものではなく、住民の時間を守ろうとする責任ある態度に聞こえた。
作業開始から15分が経過した。342名という膨大な工数。
しかし、セラムの集中力は一切削がれることがない。
彼は脳内で数百人分の生体データを整理し、目の前の患者一人ひとりの目を見て、適切な誘導を繰り返していた。
「341人目。……次の方、最後です。大丈夫、これで全て終わりますよ」
最後の一人となった老人が、恐る恐る袖をまくる。
教会の兵に強引に連れられ震えていた彼の瞳に、セラムは静かな言葉を投げかけた。
「怖かったですね。でも、もう安心してください。あなたが抱えていた呪いは、この処置で消滅しました」
セラムが針を抜き、消毒用のガーゼを当てる。
老人は、何が起きたのか分からないまま、しかし確かに肩の力が抜けていくのを感じていた。
その瞬間、老人の目にあった死の恐怖は消え、代わりに信じられないものを見るような安堵が灯った。
セラムは懐中時計をカチリと閉じた。
広場からは、ロバート医師が「ウイルス」という真実を叫び、教会の権威を粉砕する声が響き渡っている。
セラムは路地裏の影の中で、342人分の完璧なデータが整理されたことを確認し、深く息を吐いた。
「これで、処置はすべて完了だ。……さて、これで王宮の交渉へ向かうとしようか」
彼にとっての仕事は、定時を守ることだけではない。
この342名の未来を、完璧な形で「正常な数値」へと戻すこと。
影の技術者は、自らの技術で救った人々の温かな息吹を背中に感じながら、玉座の間という次の「現場」へ向かうために、軽やかな足取りで路地裏を抜けていった。
その背中には、静かな自信が満ちていた。




