[第10章]定時退社をかけた、王都パンデミック阻止・後編(第6話)
18時05分、ロバート診療所。
「次の方、服の袖をまくってください。はい、1秒動かないで。……終わりです。次の方どうぞ」
下水道から帰還したセラムは、一分の無駄もないマシーンのような手際で、運ばれてきた負傷者たちへ次々と精製した抗体製剤を注射していた。
隣ではロバート先生が、運び込まれる怪我人の傷口の深さや意識レベルを瞬時に見極め、「この者は軽度、次へ!」「この者は濃厚接触の疑いあり、セラム殿の特効薬を優先投与!」と、見事なトリアージを行っている。
セラムの脳内ラボが文字通り「秒単位」で安全な抗体を自動精製し続けるため、薬液が底を突く心配は一切なかった。
「ふぅ……これでギルドの討伐隊と、搬送されてきた近隣住民の投与はすべて完了ですね」
最後の一人にシリンジを打ち終え、セラムがパチンと懐中時計を閉じる。
時計の針は18時12分。
「素晴らしいぞセラム殿! 数十人はいた負傷者を、わずか数十分で全員処置してしまうとは……! これなら本当に、あと15分もあれば片付けを終えて撤収できる!」
ロバートが感動に震えながら、自身の白衣の袖で額の汗を拭った。
「ええ。予定通り18時30分には完全消灯、19時ちょうどには――」
セラムの口元に、ようやく「定時退社」という勝利を確信した大人の余裕(笑み)が浮かんだ、その瞬間だった。
バババババンッ!!!
本日何度目かも分からない、診療所の表扉が激しく叩かれる音が響く。
なだれ込んできたのは、先ほど下水道への案内を終えたはずのギルド受付嬢・ミリーだった。その顔は恐怖と憤怒で非対称に歪んでいる。
「ロバート先生! セラムさん! 街が、大変なことになっています……っ!」
「落ち着きなさい、ミリーさん。下水道の母体なら、先ほど騎士団の皆さんが完璧に処理されましたよ。環境消毒も済んでいます。これ以上の感染源はありません」
セラムが冷静に、しかし嫌な予感を覚えながら声をかける。
「違うんです! 魔獣じゃなくて……教会です! 中央神殿の枢機卿が『狂犬病は貧民街の不浄が招いた神の罰であり、悪魔の呪いだ』って宣言を出したんです!」
ロバートが眉をひそめる。
「神の罰だと? 馬鹿馬鹿しい、これはウイルスという微小な……」
「それだけじゃないんです!」
ミリーは涙目を拭いもせず、持ってきた王都の地図を机の上にバンと広げた。
「教会は『呪いの拡散を防ぐため』と称して、今から聖職者と直属の兵を動かし、この貧民街の周囲に防壁を築いて完全隔離するって……! それどころか、明日の日の出とともに、病の種ごとこのエリア一帯を『聖なる炎』で焼き払うという決定を下しました! 今、教会の息がかかった兵たちが、住民を閉じ込めるために動き出しています!」
「なんだと……っ!?」
ロバートが机を叩いて立ち上がった。
「狂気の沙汰だ! すでに特効薬があり、治療の目処が立っているというのに! 罪のない何千人という住民を、無知ゆえに焼き殺そうというのか!?」
「……」
一方で、セラムは一言も発さなかった。
ただ、ミリーが広げた王都の地図を、穴が開くほど見つめている。
地図の上には、教会が「隔離・焼き払い対象」として赤インクで大きく丸をつけたエリアが示されていた。
その雑な赤マルの中心、貧民街の入り口から少し入った路地の座標を、セラムの目は正確に捉えていた。毎日、仕事終わりに飽きもせず通い詰めた、あの見慣れた十字路だ。
そこには、セラムにとって「国家の存亡」よりも重要な、ある一軒の飲食店の看板がある。
――酒場【琥珀の泡亭】。
ピキ、とセラムの脳内で、何かが決定的に切れる音がした。
(……琥珀の泡亭が、焼き払い区域のド真ん中だと?)
そこは、彼が毎日の過酷な労働から解放され、冷え切った心をキンキンに冷えた麦酒と香ばしい塩モツ煮込みで癒やす、唯一無二の聖域。
そこを、現場の状況を1ミリも理解していない教会のエリートどもが、勝手な思いつきを盾に、物理的に焼き払おうとしている。
セラムの眼鏡の奥の瞳から、完全にハイライトが消え失せた。
周囲の空気が、下水道のボス魔獣と対峙した時よりも遥かに冷たく、凍てつくような絶対零度の圧を放ち始める。
「セラム殿……? 顔色が恐ろしく悪いぞ……?」
ロバートが怯えるようにセラムを見る。
セラムは静かに懐中時計を取り出し、文字盤を睨みつけた。
18時15分。
「ロバート先生」
地を這うような、だが怒りで極限まで研ぎ澄まされた声が、セラムの口から漏れた。
「教会の無能どもに伝えて下さい。――現場の人間が血の滲むような思いでウイルスの対処法を確立し、ようやく事態を収束させる体制を構築したというのに、上層部の身勝手な思いつきで現場そのものを焼き払うような暴挙……断固として認めない、と」
セラムは白衣のポケットから、予備のシリンジと、エビデンス(検査データ)がぎっしり詰まった書類の束を掴み出した。
「行きつけの居酒屋を燃やされてたまるか。……全面対決です。教会のシステムごと、徹底的に論破してやります」
限界労働者の怒りが、ついに王都の最高権力へと牙を剥いた。
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