[第10章・後編]定時退社をかけた、王都パンデミック阻止・後編(第7話)
18時17分、ロバート診療所。
「セラム殿……『全面対決』と言ったって、相手は国教でもある中央教会だぞ。神官たちだけでなく、彼らが雇う私兵まで動いているんだ。我々のような町の医者と一介の助手で、一体どうやって立ち向かうというんだ?」
ロバートが困惑と不安を隠せない様子で問いかける。当然の疑問だった。相手は神の権威を後ろ盾に、王都の治安すら一部掌握している巨大組織である。物理的な武力も、民衆への影響力も、こちらとは天と地ほどの差があった。
しかし、セラムは地を這うような、だが怒りで極限まで研ぎ澄まされた声で切り出した。
「先生、医療の世界において、権力や感情、あるいは神への信仰など何の意味も持ちません。最も強い力を持つのは、いつだって『数字』と『結果』――すなわち、客観的な事実、エビデンスです。教会がどれほど神聖な言葉で取り繕うとも、目の前の患者が治っているという厳然たる事実の前に、彼らの『神の罰』という理論は、ただの怠慢と無知が隠した妄想に成り下がります」
セラムの視線は、ミリーが広げた王都の地図の一点に注がれていた。赤インクで雑に丸で囲まれた「焼き払いエリア」。その中心には、セラムが毎日の過酷な労働から解放され、冷え切った心をキンキンに冷えた麦酒と香ばしい塩モツ煮込みで癒やす、唯一無二の聖域――酒場『琥珀の泡亭』がある。
「俺のサードプレイス(癒やしの空間)を、現場の状況を1ミリも理解していない無知な教会の勝手な仕様変更で燃やされてたまるか……!」
押し殺した声の割に、そこから放たれる殺気は、先ほど下水道で対峙したボス魔獣のそれを遥かに凌駕していた。あまりの形相に、ロバートもミリーも思わず一歩身を引く。セラムにとって、行きつけの居酒屋を守ることは、国家の存亡よりも優先される最重要事項だった。
「ミリーさん、今すぐ動けますか?」
「は、はい! ギルドの受付嬢を舐めないでください、何をやればいいですか!?」
セラムのただならぬ気迫に圧されながらも、ミリーが力強く前へ出る。
「先ほど私が治療を終えた、完治した住民たち30人のところへ行ってください。彼らに『明日、教会に家ごと、そして我々の憩いの場ごと焼き殺されたくなければ、今すぐ診療所の前に集まってくれ』と伝達を。彼らはすでに、ウイルスの脅威から完全に脱した『生きた証拠』です。彼らを我が方の最大の防衛戦力として組織します」
「わかりました! 死にたくないのはみんな同じです、すぐに集めてきます!」
ミリーは力強く頷くと、再び夜の街へと弾かれたように駆け出していった。
診療所に静寂が戻る。ロバートは、セラムが差し出してきた書類の束――これまで記録してきた患者たちの臨床データや、血液検査の推移、特効薬の効果を詳細にまとめた資料を見つめ、セラムの意図を察して目を見開いた。
「なるほど……治療を終えた彼らを教会の前に並べ、病が完全に消え去ったことを見せつけるわけか。しかしセラム殿、それだけであの強硬な神官たちが納得するだろうか? 悪魔の悪だくみだと言い張って、無理やり火を放つ可能性もあるぞ」
「だからこそ、先生。あなたに『表舞台』に立ってもらう必要があります。私のような一介の助手が前に出ても、彼らは話すら聞かないでしょう。ですが、王都の住民から深く信頼されている『ロバート医師』が、この完璧な検査データを掲げて大衆の前で演説をぶちかましたらどうなるか。大衆はどちらを信じると思いますか?」
「私、が……大演説を?」
ロバートが思わず自分の大きな胸に手を当てる。
「ええ。教会の最高責任者たちが集まる中央広場で、彼らの正面から大見得を切ってきてください。病の原因は神の罰などではなく、微小なる原因物質に過ぎないこと。そして、安全な特効薬によってすでに治療法は確立されているという事実を、これ以上ないほどのドヤ顔で、彼らの脳髄に叩き込んでやるのです」
セラムの言葉には、確かな知識に裏打ちされた説得力と、絶対的な自信が満ちていた。
ロバートは書類の束をぎゅっと握りしめた。これまで、ただ目の前の命を救うことしか考えてこなかった街医者が、初めて「無知という病」に冒された国家そのものを治療するための覚悟を決めた瞬間だった。
「……ふっ、大演説か。医者になってから一番の大仕事になりそうだな。いいだろう、セラム殿。その役目、このロバートが引き受けよう。データの見方はお前に叩き込まれた。教会の神官たちの鼻明かしをしてやる」
「期待していますよ、先生。あなたが表で教会の目を引きつけ、時間を稼いでくれている間に、私は裏で残りのすべての『リスク(未接種の住民)』を処理します」
セラムは静かに懐中時計を取り出し、文字盤を睨みつけた。
時計の針は18時25分。
定時退社の時間はとうに過ぎてしまったが、ここで妥協すれば、明日の夜に『琥珀の泡亭』で美味い麦酒を飲む権利が永遠に失われる。不採算の極みのような時間外労働だが、未来のプライベートを守るための必要経費だ。
「私のサードプレイスを脅かすバグは、組織ごと徹底的に論破してデバッグしてやります。……さあ、業務時間外労働の後半戦といきましょう」
限界労働者の怒りが、ついに王都の最高権力へと牙を剥いた。
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