[第10章・後編]定時退社をかけた、王都パンデミック阻止・後編(第5話)
「数十名の怪我人がこちらへ!? それに、下水道の奥に巨大な母体だと!?」
ミリーの報告に、ロバートは顔色を変えた。
だが、それは先ほどまでの「薬が足りない」という絶望ではない。未知の巨大な感染源に対する、医師としての純粋な警戒だった。
「セラム殿、状況が急変した。追加の負傷者が数十名、こちらへ運ばれてくる。さらに下水道には狂犬病ウイルスの『母体』がいるそうだ。……薬液の増産は任せられるな?」
「当然です。私の『ラボ』は、すでにフル稼働で次々と抗体を精製しています。この程度の増産、誤差の範囲ですよ」
セラムは手元のトレイに、先ほどよりも一回り大きなアンプルケースを並べながら、冷静に言い放った。彼の脳内では、進化を遂げたスキルが、すでに数百人分の特効薬をいつでも射出可能な状態でスタンバイさせていた。
「なら安心だ。……だが、母体を叩かねば、王都の下水道から無限にウイルスが湧きだし、被害は拡大し続ける。このままでは、どれだけ特効薬があっても供給が追いつかなくなる恐れがあるぞ」
「その通りです。根本的なデバッグが必要です」
セラムは立ち上がり、静かに自身の白衣のボタンを上まで留め直す。
「ミリーさん。至急、付近を警戒中の聖騎士団に連絡を。下水道へ誘導してください。私も同行し、現場の環境衛生改善を行います。元凶を潰すのが、最も効率的なトラブルシューティングですからね」
「正気かセラム殿! 検査技師のお前が下水道に乗り込むなど――」
ロバートの制止を、セラムはパチンと懐中時計を閉じる音ではねのけた。
時計の針は17時35分。ここからが、本当の時間外労働の始まりだ。
「先生、勘違いしないでいただきたい。私は戦いに行くのではありません。――18時30分までにすべての業務を終え、19時ちょうどに居酒屋の暖簾をくぐるために、プロの『前衛(盾)』の力をお借りしに行くのです。私は現場の環境衛生改善、つまり『消毒と汚染区域のナビゲート』のみを担当します。戦闘という危険で非効率なタスクは、すべて騎士団にお任せします」
セラムは診療所の隅に置かれていた、大容量の噴霧器(手動式ポンプ)と、高濃度の消毒用エタノールボトルの山を迷わず掴んだ。
「先生、診療所のトリアージと投与は任せました。……行ってきます」
白衣を翻し、セラムは夜の貧民街へと、そして臨戦態勢の騎士団が待つ下水道の入り口へと足早に飛び出していった。
下水道の内部は、異臭と、魔獣たちの不気味な唸り声で満ちていた。
「おい、本当にこの奥に母体がいるんだな!?」
重厚な鎧に身を包んだ騎士団の分隊長が、剣を構えながら緊張した面持ちでセラムに尋ねる。
セラムは戦闘用の武器など一切持っていない。背中に消毒液のタンクを背負い、ノズルを手に、脳内のシステムで汚染状況を冷静にスキャンしていた。
「ええ。私のシステムが、前方の空気中におけるウイルス飛沫の濃度上昇を感知しています。……分隊長、ここから先は『汚染区域』です。これより空間消毒を行いますので、私の後ろについてきてください」
キコキコと噴霧器のレバーを引き、圧力を高めたセラムがノズルの引き金を引く。
シューーーーーーーーッッッ!!!!
勢いよく噴射される高濃度エタノール。セラムは通路の壁、床、そして空気中へと、淀みのないプロの所作で徹底的な除菌作業(空間消毒)を行っていく。
ウイルスの付着した飛沫や排泄物が瞬時にアルコールによって凝固・変性し、下水道の危険な空間が、セラムが歩く先から次々と「安全なクリーンエリア」へと変貌していく。
「グルルルル……ッ!」
水路の奥から、目が赤く濁り、口から泡を吹いた巨大な変異イタチ――「狂犬病の母体」が、ぬっと巨体を現した。周囲には下僕である通常の魔獣が数十匹も群がり、牙を剥いて飛びかかろうとする。
「出たぞ! 総員、構え――」
「動かないでください」
怯む騎士たちを、セラムの落ち着いた声が制した。
セラムは慌てず、母体の周囲の床や水面に向けて、容責なくエタノールミストを大量噴射する。
「母体の口から飛散している唾液のトラップを消毒しました。足元の感染リスクはゼロです。――騎士団の皆さん、お待たせしました。標的の周囲の安全は完全に確保しました。……どうぞ、存分に叩いてください」
「お、おおお! 応ッ!!」
感染の恐怖を完璧に排除された騎士たちは、咆哮を上げて一斉に突撃した。
強固な鎧と鍛え上げられた剣技が、一歩も引かずに母体へと襲いかかる。本来なら「噛まれたら終わり」という恐怖で鈍るはずの動きが、セラムの徹底的な衛生管理と噛まれても治療法があるということが分かったことによって100%のパフォーマンスを発揮していた。
「オラァァァッ!!」
分隊長の放った強烈な一撃が、母体イタチの首を深く切り裂く。
ドオォォン……と、ウイルスの元凶である巨体が水路に沈み、完全に物言わぬ肉塊へと変わった。
「やったか……!」
騎士たちが歓声をあげる中、セラムはすでに手際よく噴霧器のノズルを片付け、懐中時計を開いていた。
17時51分。
「よし。環境汚染源の完全滅菌、および騎士団による感染源の駆除完了。所要時間、わずか16分。――分隊長、迅速なタスク処理、感謝します。これなら、診療所の怪我人たちを片付けても、18時30分の完全撤収に十分に間に合いますね」
「あ、あぁ……(こいつ、化け物を前にして時計しか見てねえ……)」
戦うことすらなく、プロとしての完璧な連携(お任せ)でトラブルを片付けたセラムは、唖然とする騎士団を置いて、足早に下水道の階段を駆け上がっていくのだった。
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