[第10章]定時退社をかけた、王都パンデミック阻止・前編(第4話)
「おおお……おおお、これが……神の奇跡を超える、聖なる盾の滴……!」
ロバートは、セラムから手渡されたトレイの上で淡く琥珀色に輝くガラスアンプルを見つめ、武者震いをさせていた。
その目はすでに、絶望に暮れる医師のものではない。最高のエビデンスと無敵の武器を手に入れた、最強の臨床医の輝きを宿している。
「よし、セラム殿。ドヤ顔の準備は完了した。……行くぞ!」
バンッ! と音を立てて、ロバートが診療所の内扉を勢いよく押し開けた。
喧騒と悲鳴で満ち満ちていた待合室の空間に、ロバートの雷のような大音声が響き渡る。
「静粛にッ!!! 迷える王都の羊たちよ、よぉく聞くがいい!」
一瞬で、30人以上の住民たちの視線がロバートに集まった。
ロバートはこれ以上ないほど胸を張り、顎を堂々と上げ、琥珀色のアンプルをあえて天井のランプの光に透かすように高く掲げてみせた。
「安心しろ、お前たちは誰一人として狂い死ぬことはない! 教会の無能どもが『祈れ』としか言わぬ中、我が診療所は、噛まれた傷口から侵入した悪魔の使いを体内で残らず捕獲し、爪の先ほども暴れさせずに無力化する究極の特効薬――『聖なる盾の滴(抗狂犬病免疫グロブリン)』の開発に、今この瞬間に成功した!!」
「な、なんだって……!?」
「特効薬だと!? 教会でも治せない病を、ロバート先生が!?」
住民たちの間に、驚愕と、それ以上の救いの波紋が急速に広がっていく。
パニックという名の悪性の感染症が、ロバートの圧倒的な自信(ドヤ顔)によって一気に中和されていくのが分かった。
「……さすがはロバート先生。ハッタリの効かせ方と、患者の心理コントロールに関しては超一流だ。おかげでこちらの業務がやりやすくなる」
その背後から、セラムがすでに袖をまくり上げ、テキパキと準備を整えて現れた。
その手には、アンプルから薬液を吸い上げた、鋭利な注射針のついたシリンジ(注射器)が数本、無駄のない所作で構えられている。
「さあ、時間がない。17時15分です。ここからは時間との勝負だ。……先生、あなたはカルテのチェックと患者の呼び出しを。私は片端から『処理(投与)』していきます」
「うむ! 任せろセラム殿!」
ここからは、前世の繁忙期の総合病院を彷彿とさせる、恐るべきスピードの「集団予防接種」の現場と化した。
「次の方、こちらへ。左腕の袖を肩までまくってください」
セラムは機械的なまでに正確な動作で、住民の腕をアルコール綿で一拭きする。
チクッ。
「あ、痛っ……」
「はい、終わりです。揉まずにそのまま服を戻してください。次の方、どうぞ」
衣服をまくらせ、消毒し、皮下(あるいは筋肉内)に的確に中和抗体を注入し、針を抜く。その一連のシークエンスに、コンマ1秒の淀みもない。前世で何百人もの健康診断や外来患者の対応をこなしてきたプロの技師にとって、30人程度の単発投与など、もはや目をつぶってでもできるルーチンワークだった。
「ひ、一瞬で終わった……。全然痛くないぞ!?」
「本当だ、なんだか腕がじわっと温かくなって、恐怖が消えていくようだ!」
進化したスキルによって精製された抗体は、前世のそれよりも純度が高く、体内の異物を即座に探知して結合を始めていた。住民たちが感じる「温かさ」は、まさに免疫システムが物理的に強化された証拠でもあった。
カチャ、カチャ、と空になったアンプルがトレイに小気味よく積み上がっていく。
17時22分。10人完了。
17時29分。20人完了。
(いいペースだ。このままいけば17時40分にはすべての投与が完了し、片付けと日誌の記入を含めても18時前には完全に撤収できる。『琥珀の泡亭』のハッピーアワーには間に合わないが、夜勤に突入することだけは確実に回避できる……!)
セラムの脳内計算は、恐ろしいほどの正確さで帰宅への最短ルートを弾き出していた。
しかし。
世の中の「残業案件」というものは、得てして、現場の労働者が「よし、早く帰れるぞ」と確信した瞬間に、最悪の追加オーダーを放り込んでくるものである。
バァンッ!!!!
診療所の表扉が、まるで蹴り破られるかのような凄まじい音を立てて開いた。
夜風と共に飛び込んできたのは、肩で荒い息を吐き、全身を下水道の泥と赤黒い返り血で汚した、あの冒険者ギルドの受付嬢・ミリーだった。
「ハァ、ハァ……っ! ロバート先生! セラムさん……!! 大変、大変ですっ!!」
ミリーの悲痛な叫び声に、待合室の空気が再び凍りつく。
「ギルドが下水道に派遣した討伐隊が……あの『群れ』に襲われました! 噛まれた怪我人が数十名、今こっちに向かって運ばれています! それに……下水道の奥で、通常のイタチとは比較にならないほど巨大な、狂犬病の『母体』が覚醒したって……っ!!」
カラン……。
セラムの手から、空のシリンジがトレイへと静かに落ちて、冷たい音を立てた。
懐中時計の針は、17時32分。
運ばれてくる、さらなる大量の怪我人(新規残業案件)。
そして、パンデミックの源流である、巨大なウイルスの巣窟(特大の仕様変更)。
セラムの前髪の奥の瞳から、完全に光が消え失せた。
(……追加発注だと? ふざけるな。私の麦酒と塩モツ煮込みを、これ以上泥沼の残業で汚されてたまるものか)
限界労働者の静かなる怒りが、ついに王都の地下へと牙をむく。
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