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『万能鑑定士? いいえ、裏方の臨床検査技師です 〜手柄は全部相棒の医者に押しつけて、私は貧民街で定時退社を目指します〜』  作者: 波留馬 喬


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[第10章]定時退社をかけた、王都パンデミック阻止(第3話)

ゴーーーン、ゴーーーン……。

王都の空を不気味な茜色から深い夜の闇へと塗り替えるように、夕刻の終わりを告げる17時の鐘が、重々しく、そして容赦なく響き渡った。

それは普段のセラムにとって、完璧な業務遂行を成し遂げた証であり、お気に入りの居酒屋『琥珀の泡亭』で冷え切った麦酒ビールのジョッキを傾ける、至福のアフター5への幕開けを告げる美しい音色のはずだった。

だが、今のセラムは、すっかり夕闇に包まれつつある貧民街のボロ診療所の前に立ち尽くしていた。

ひんやりとした夜風が白衣の裾を激しく揺らす中、セラムがパチンと音を立てて開いた懐中時計の針は、無情にも17時03分を指している。

定時を過ぎた。

つまり、最悪なことに、超過勤務(残業)が確定した瞬間だった。

「……ッ」

セラムの端正な横顔が、未曾有の冷徹さで凍りつく。前髪の隙間から覗く瞳には、地獄の連続夜勤をノー代休で押し付けられた限界労働者のような、静かで深い、漆黒の怒りがメラメラと渦巻いていた。

(残業だ。私の完璧なタイムマネジメントが、どこぞの野生のイタチと無知な教会のせいで無惨に打ち砕かれた。……許さん。絶対に許さんぞ。1分1秒でも早くこの事態を収束させ、1分でも短い超過勤務で帰路についてみせる。私のささやかな塩モツ煮込みの時間を邪魔する者は、ウイルスだろうが神官だろうが徹底的に駆逐するのみだ)

診療所の中は、まさに混沌を極めた戦場と化していた。

「助けてくれ!」「俺もあの水を恐れて狂い死ぬ化化け物になるんだ!」と絶望した30人以上の住民たちが、押し合いへし合いしながら悲鳴をあげ、パニックを起こしている。怪我人を抱えた家族たちの怒号、泣き叫ぶ子供の声、あるいは恐怖のあまり過呼吸になりかけている若者の足音が混ざり合い、診療所の木製の床がミシミシと悲鳴をあげる。

ロバートが「落ち着け! 私が全員の命を保証する! だから私を信じて大人しくベッドに横になるんだ!」と声をからして必死に宥めているが、具体的な治療法も特効薬も存在しないこの世界において、住民たちの暴動寸前の恐怖と疑心暗鬼は一向に収まりそうにない。

(狂犬病ウイルス。中枢神経を侵す悪魔の病原体。だが、噛まれた直後の未発症者であれば、ウイルスが末梢の神経から脊髄を通り、脳へ到達するまでのわずかなタイムラグがある。この『潜伏期間』の間に、ウイルスを中和する特異的抗体を外部から大量に投与し、体内に入り込んだウイルスを完全に包囲して無力化すれば、100%発症を阻止できる。前世の現代医療における、曝露後ワクチン接種および免疫グロブリン療法の基本ロジックだ)

しかし、前世のような製薬会社が作った既製品の『抗体製剤』など、この中世レベルの異世界には当然存在しない。手元にあるのは、ロバート先生が気休めでかき集めた、気休め程度の消炎効果しかないハーブの束だけだ。

(既製品がない。なら、どうする? 答えは一つ。今ここで、私の手で作るしかない)

セラムは自分の左腕を見つめた。

今世の彼の肉体は、異世界で新しく手に入れたものだ。遺伝子レベルで言えば、前世の日本人であった頃の肉体とは何の関係もないはずだった。だが、彼の脳内には、前世の知識と紐づいた『臨床検査ラボ・システム』が明確に宿っている。

(……一途の望みをかけて、試してみる価値はあるか。私の魂の記憶がどこまでこの肉体に作用しているのか、確かめさせてもらう)

セラムは周囲の喧騒から一歩引き、自らの手首の静脈にそっと指先を触れ、深く意識を集中させた。外部の患者を観察してデータを読み取るのと全く同じ要領で、自らの血液に含まれる免疫情報、すなわち「血清中に存在する抗体」を、試しに脳内の『免疫検査室』へとスキャンして取り込んでみたのだ。

すると、どうだろう。

脳内の仮想モニターにポップアップした、セラム自身の生化学・免疫血液学データを見て、彼は思わず前髪の奥で目を見張った。

画面に並ぶ無数の抗体プロファイル。そこには、今世で一度も出遭ったはずのない狂犬病ウイルスに対する強固な中和抗体の分子構造だけでなく、麻疹、風疹、おたふく風邪、破傷風、B型肝炎――前世で臨床検査技師として病院で働くために、義務として接種させられてきた「あらゆる予防接種の抗体データ」が、完璧な形で網羅され、今世の肉体の血液情報として美しく同期されていたのだ。

(そうか……この【臨床検査ラボ・システム】は、私の『魂』が記憶していた医療データそのものを、この肉体の免疫情報、生体防御システムとして完全に再現していたのか……! 私が前世で積み重ねてきた経験の足跡は、何一つ失われていなかった!)

魂に刻まれた前世の努力の結晶、そして医療従事者としての誇り。

それに気づいた刹那、セラムの脳内で、これまで聞いたことのない硬質で厳かなシステム規律の音がファンファーレのように鳴り響いた。

『――個別免疫データの完全同期を確認』

『固有能力【臨床検査ラボ・システム】、深度解放プログラミングを開始』

『――エラーなし。スキル【免疫プロファイル(抗体精製)】へと覚醒・進化します』

(なっ……!? スキルの進化だと……!?)

直後、セラムの頭の中に強烈な最適化の奔流が走る。

これまではデータを「解析し、モニターに表示する」だけだったシステムが、セラムが獲得している免疫能力に限り、その抗体の分子構造を脳内のラボ内でダイレクトにミクロの単位で再構成し、現実世界へ「即座に物質化して生み出せる」完全なる自動精製ラインへと変貌を遂げたのだ。

(素晴らしい……。これなら本来必要な複雑な分離や精製の手間すら一切必要ない。今すぐここで、30人分の完璧な特効薬を用意できる!)

セラムは脳内で狂犬病の中和抗体を指定し、一切の不純物を排除した精製プロセスを実行した。彼が静かに掌を開き、白衣のポケットの中で魔力を流し込むと、そこには淡い琥珀色に優しく輝く、完璧に精製された抗血清(抗狂犬病免疫グロブリン液)の入ったガラスアンプルが、必要数分ずらりと、カチャカチャと音を立てて精製されていた。

わざわざ自分の腕に針を刺して血を抜く必要すら、進化したスキルにはもう残されていなかった。

「セラム殿! 住民たちのパニックがもう限界だ! 彼らを納得させて引き留めるための、何か確かな『治療法ことば』をくれ! このままだと彼らは恐怖で暴れだし、街へ飛び出して聖騎士団に切り殺されてしまう!」

背後から、大汗を流したロバートが悲痛な声をあげ、すがるような目でセラムを振り返る。

セラムは完成したばかりのアンプルが並ぶトレイを静かに小脇に抱え、薄暗い影からすっと住民たちの前に姿を現した。自然な動作で、いつも通りの手際の良さと、血の気の引くほど冷静な声のまま、ロバートの耳元へ静かに、しかし確信に満ちたトーンで耳打ちする。

「先生、言いなさい。神の奇跡や教会の聖水など遥かに凌駕する、我々の『聖なる盾の滴』が、今ここで完成したと。傷口から侵入した悪魔の使いを、体内で一匹残らず捕獲し、爪の先ほども暴れさせずに無力化する、究極の特効薬です」

「な……ッ!? 特効薬だと!? 本当に、本当にもう用意できたのか、セラム殿!」

ロバートの瞳に、絶望を消し飛ばす圧倒的な希望の光が宿る。

「用意したんですよ、私の定時退社の時間をこれ以上削らせないために。――先生、ドヤ顔の準備を。ここからは、いかに迅速にこの残業案件を片付け、速やかに業務を終了できるかの勝負です」

進化したスキルを携え、セラムの「残業時間を1分でも短縮するための迅速な業務処理」が、いま静かに始まった。

よろしければ何点でも構いませんので評価やコメントをいただけると嬉しいです。

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